お久しぶりの須貝です。
最近アメリカなんかで問題になっているのが検索サイトへの過剰反応。つまりは、例えばgoogleなんかで検索すると最初に出てくる方がいいわけですね。それを大企業がメチャメチャ争いまくっているらしいです。「車」で検索したらうちの企業が一番最初に出てくるぞ!みたいな。
だからヒット数を伸ばすために現在検索されている回数が多い単語を無理やり本文中に使ったりしているんだって。日本でももちろんそうで、「エロ」とか「中川翔子」とかいう単語を入れれば関係なくてもヒット数は上がる…みたいな。本末顛倒と言うのか?
さて、話は変わりますが、ご老人のお話です。当然のことかもしれませんが、老いたからと言って人間性が改善されるわけではない。それどころか、老いれば老いるほど自由になっていく人の方が多いわけで、手が付けられなくなる人だっている。
上手に老いればそれはもう素敵な人格者が生まれるわけですが、必ずしもそうではない。よく考えてみればある程度若い内に改革的に何かが変わっていなければ、ダメな人はそのまま老いていくわけで、老いれば老いたで歳のせいで他の人から何かを言われることが少なくなる。周りの人間も「もう十分老人なんだから」とか「頑固だから」とか「老い先短いから」なんて思って諦めてしまう。実際、自分もそうなるかもしれないという恐怖がありながら思うのですが、強情な人が(もしかしたら強情になってしまった人が)多いんじゃないかなぁと思うのです。
なぜそんなことを思っているかというと、この前言ったように鎌倉に行きまして、長谷寺というお寺に行ったのですが、そこに来ていたツアー客のうるさいのなんの。人は集まれば気も大きくなるしうるさくも周囲に気が回らなくもなるものですが、それにしてもあんたら大人なんだからもっと慎めよ、仮にも寺なわけで、他に人もたくさんいるんだぞと思うわけです。それが大体平均年齢六十歳くらいの男女の団体でした。
男の人は女の人と出会うために、女の人は女の人とおしゃべりするために集まったようなグループ。それが目的なら他に行ってくれ、と思ったのはあの場にいた僕だけではないでしょう。
それからご老人の運転。自分もペーパーなので技術に関しては何も言いませんが、自転車に乗っていると時々轢かれそうになります。自信がないなら乗らなきゃいいのにと思いますが、そうではなくて、自信はあって自分はちゃんと乗れる気満々でももう体も頭も追いつかないのでしょう。それはそれで仕方のないことですし、自分も四十年後にはそうなっているわけでいいのですが、頭にくるのはやたらクラクション鳴らすジイさん。明らかに離れているのに隣を通るたびにクラクション。信号待ちで追いついて、また追い抜かれる時にクラクション。ええ加減にせえよ、と。お前は何様や、と思うのです。
先輩というだけで威張る人、よくいますが、それの更に酷くなったバージョンではないでしょうか。「老人は敬え」と言われますが、僕は老人だろうが若者だろうが尊敬できない人は尊敬できません。広い歩道のど真ん中を我が物顔でチンタラ歩いて、隣を自転車で通り抜けていくと「なんだこいつは」なんて顔をする人を、僕は尊敬できません。老いていようが若かろうが、そういう人は嫌いです。だから老人だからと言って手放しに尊敬したり敬ったり大事にしたりしなければならないとされるのが、僕には理解できません。
いや、大多数は、自分の三倍近く生きていて、その分経験もあって、苦難も乗り越えて、今の日本を作り上げた人たちで、僕らが今その恩恵に預かっていると言うのはもちろんです。そのことに関しては全く意義はありません。
が、全員がそうじゃない。偉そうにしてる人ほど何もしてないくせに、今の日本があるのは自分たちのおかげだ、なんて思ってるんじゃないでしょうか。苦労したり、経験を積むだけで大人になるわけではなくて、それをどう捉えるか、そしてどう努力して自分を高めることに時間を費やしたかということなんだと思います。どんなに時間をかけようがバカはバカです。僕らの中にダメな人がいるのと同じように、そのまま老いてゆけばダメな老人だってたくさんいるわけです。
僕の考えには異論はあるでしょうが、嫌いな人は嫌いののでしょうがありません。ただ、最近悲しいのは五十年も六十年も生きているのにこれなのか、と思う人や、こんな風にはなりたくない、と思う人を見かけることの方が多くなっていることです。