冬を想う。

どうも、須貝です。

建て替えた後の実家に10年、兄と一緒に中野に8年住んだわけですが、冬と言って思い出すのは僕が一番最初に住んだ家、今の実家が建つ前に同じ場所に借家として住んでいた家のことです。確か5、6歳くらいまで住んでいたはずですが、どうも記憶が曖昧なので間違っているかもしれません。

かなりボロい家で、思い出せる限り壁もふすまも障子も崩れていたり破れていたり落書きされていたり、ほとんど僕や兄がやっていたわけですが(ほぼ僕ですが)、なぜかその家のことを思い出す時は大抵冬のこと、それ以外の季節のことはよく思い出せません。なぜなんでしょうね。

僕自身冬に産まれたせいもあってか、一番好きな季節は秋の終わりから冬に掛けて、雪に閉じ込められる頃も好きで、夜の道をザクザクと氷を踏みしめながら歩いたり、透き通った中空に浮かぶ星が輝き過ぎるほど視界いっぱいに広がっているのを眺めたりするのが好きでした。今でも多分好きです。

元々日当たりのあまり良くない古い頃の家は冬になるとますます薄暗くて、日中でも電灯を点けなければならないほどの所を、当時双子の弟を身ごもっていた母は昼寝のために消してこたつに潜り込み、悪戯盛りの僕は一緒に眠ることも出来ずに一人で遊んでいました。兄がいなかったのは小学校に通っていたためでしょうか。
一番古い記憶は多分2歳か3歳頃のこと、コンクリートむき出しのうすら寒い玄関に精米する前の米を入れるための粗い紙の袋を敷いて一人で遊んでいたこと、同じくらい古い記憶は弟が産まれる前の病院で、お腹の大きな母の隣をベッドに乗っかって飛び跳ねていたら怒られたこと、そんな記憶です。

自分の、もしくは誰かの虚飾を加えない生の記憶に触れると、命のことや、自分の辿ってきた道や、人々の生きた諸々を思い、それはとても貴重な、掛け替えのないことのように思います。冬になると自然と、そういうことをたくさん考えてしまいます。

実は僕たちが思っている以上に重たい僕らの命の中には、例えば僕の場合は27年間の僕のあらゆる瞬間が詰まっていて、積んだ経験の分だけの感情が眠っていて、水底を魚が通り過ぎる時に砂を舞い上げるように、時々甦っては今の僕に影響し、新しい感情は次々と積み重ねられていって、そうやって僕たちは日々を生きていっていて、そう考えると例え誰の命や生活であろうが簡単に阻害してしまってはいけないような、そういう気持ちになります。

役を演ずるということも物語を紡ぐということも、そういう部分に目を向けることで、これはこの行為自体がどうしても愛みたいなものに結びついてしまうんじゃないかと、最近は思っています。
たくさんのことに目を奪われてしまいがちですが、僕が今していることは、どこかで救いに結びついて欲しい。僕自身や彼や彼女やそういった人々の。

その古い家が取り壊された時、確か僕と母はそれを見ていて、兄もいたかもしれませんが、いや、多分いたでしょう、父も仕事を早く切り上げて見に来たんじゃなかったでしょうか。母は「なんだか涙が出てきちゃった」と言って泣き、僕も何か言いようのない悲しみに襲われて、ボロかった家はやはり簡単に崩されて、何かが終わった。多分一生忘れることは出来ません。冬とは僕にとって多分そういう季節です。僕の根っこにそれがある。

あー気持ちがずっと、途切れなければいい。大切なものをずっと大切に出来ればいい。そんなことを考えながら、18時間後に初日を迎えます。冬のことを徒然と書いてみました。冬を想う。

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