どうも、須貝です。
『浮遊』、初日まであと3日となりました。
今日は思うところを語ります。
この『浮遊』というお話は、以前一度企画として立ち上がりかけ、3人芝居としてプロットまで出来上がっていたのですが、その話がなくなり眠っていた作品でした。その時も同じく小説家の女、彼女と同居する男、闖入者の女という構図でしたが、主人公は小説家の女でした。つまり元々内側にいた人間に主眼を置いていたのです。今回は逆、闖入者である女性が主人公で、僕の感情も多分に彼女に移入されています。
去年3月の震災が起こった後、僕だけでなくたくさんの人が、「自分はどこに帰るべきか?」ということを見つめ直し始めたような気がします。
帰る場所がなくなってしまうことの空しさ、なくなってしまうかもしれない恐ろしさ、誰かを失うことや、失う可能性があることを突きつけられ、さて僕は、私は、最終的にどこに向かうのか、どこに留まるべく生きているのか、そういう見通しのようなものを、たくさんの人が欲したような、気がします。
僕はずっと、僕がどこにいるべきなのか考えてきました。
正直、家庭環境にも恵まれていますし、学校や友達にも恵まれて生きてきました。申し分のない人生を送ってきました。だからこそ、なのかもしれませんが、「ここが僕の場所ではない」ような気がしてしまうことがよくありました。満ち足りて不満のないそこにいると、ここに自分がいなくても大丈夫なのではなかろうか、といった、まぁ思春期的な甘甘なことを考えることが多かった。僕もその場所の一部であることを忘れて、僕がここにいることがいかほどのものかと自分を軽んじることが多かった。
自分が唯一になる場所が欲しかった。自分を唯一としてくれる人を欲した。でもそれはなかなか得られず、自分が欠陥品のような劣等感をずっと感じていました。
誰かにお願いだからここにいてと、拝み倒して欲しかった。これは欲ですね。独占欲です。
でもこれだけの年数を生きると、自分でなければいけないなんてそんなことは、数えてもあまり見当たらないということに気付かされる。舞台の上だけです、僕は。そういう風に自分を大事に出来る場所は。舞台に立っている自分は存在していていいと本気で思っているけど、それ意外の自分に関しては正直よく分かりません。代わりも効く。場所があるだけ幸せです、僕は。こんな、同じようなことをぐるぐると考え続けています。
今回のこの話には、もし僕に場所がなかったらという恐怖のようなものも織り込まれている気がする。もし僕に何もなかったら、僕は何に縋って生きていったらいいんだろう。場所が欲しい。帰る場所が。当たり前の場所が欲しい。誰にだってすぐ思いつく、つまらない幸せが欲しい。他には何もいらない。「ただいま」と「おかえり」のある場所が欲しい。
今までに自分が、この道を極める過程で捨てていったもののことに、思いがゆくことが多い。元来後ろ向きな人間なのでね。得たもののことを考えればいいのにね。
勝ちたい勝ちたいと、負けたくない負けたくないと気を張って生きてきて、でもふと我に返った時に、勝ったからどうだと言うんだ、そもそもお前の言う勝ちは勝ちなのかと、揺らぐ。あらゆることが虚しい。生きていけないほどに、虚しく感じます。
きっと一生、持病のように思い続けていくことなのでしょう。この話をすると友達に叱られます。怒られます。傷つけてます。ありがとう。ごめん。でもきっと一生僕は、これから逃れられない気がする。とても怖いです。恐ろしくて仕方がありません。
僕の書く話は、ごく近い意味で僕のための話です。だから自分を職業作家とはどうしても言えない。いやいやそもそも稼いでいませんが、心持ちの問題で。僕が書いている話は、僕が言って欲しい言葉を、そうあって欲しい姿を、作品を通して僕に届けているのだと思います。それが皆さんにも共有して頂ければいいくらいに思っている。作品として成立なんて、本当は別にしなくてもいい。見世物として成立しているかも正直分からない。とても危ういと思っています。申し訳ないという気持ちが根底にある。
でも、きっと、僕と同じように僕の作品で救われる人もいるはずだと、信じている部分もあるんです。だから人前に出すことをやめられない。そこに可能性があるなら、挑むことをやめる理由がない。
まーそういう諸々をひっくるめて、観て欲しいんですね。
長くなりましたけど、思うところを書き殴ってみました。明日の朝見たら消してしまうだろうから、冷静になる前に投稿しよう。