縁があるということ。

どうも、須貝です。

逗子に来ています。冗談と思われるかもしれませんが、執筆のために来ています。目の前に海が広がっています。昭和の文豪かよ。二十一の時も執筆のために箱根に三泊しましたが(結局全然書けなかった)、その時と基本的な発想が変わっていなくて怖いです。

そこそこ追い詰められていますが、ブログを更新します。

遅ればせながら、脚本を担当した『カラオケの夜』が大阪府門真市で行われた門真国際映画祭2019で最優秀作品賞をいただきました。山田佳奈監督、主演の一角を担う亀島一徳君とずーっと一緒に進めて来たプロジェクトなので、非常に嬉しいです。一緒に闘ってくれたスタッフの皆様、舞台版のスタッフの皆様、映画製作にあたりクラウドファンディングでご支援くださった皆様、『カラオケの夜』を最優秀作品賞に選んでくださった審査員の皆様、今までの上映を観てくださった皆様、本当に本当にありがとうございます。

『カラオケの夜』という作品は本当にいい作品だなあと観る度に思っていて、たとえ評価されなくても僕の中でその評価は変わらないと思っていたのですが、こうやって評価していただけたこと、とても心強いなあと思います。女性の審査員の方々の支持が多かったそうです。それもとても嬉しかった。

舞台も規模が大きくなればそうですが、映画は本当にたくさんの人と関わることになるメディアで、製作段階もそうですが、映画祭に出品したり上映があったりという段階でもたくさんの人との交流がある。この仕事をしていて、他の仕事をしている方に対し少しでも誇れることがあるとしたら、ほとんど毎日新しい人と出会えるということかなと思っています。前にもここで話したような気がしますが、それが一番楽しい。いい人ばかりではないんですけど(と、ここで言っていいかは分からないが)、たとえそうだとしても楽しい。

そしてこの仕事を選んで、脚本・演出・俳優をやっていて、もちろん仕事仲間という意味で多くの方に会うんですが、考え方として、電車で同じ車両に乗り合わせた人、コンビニでレジの対応をしてくれた人、街ですれ違った人、そういった人たちですら新しく出会った人たちであるという風に考えるようになったこと、これは大きな財産であると考えています。常に完璧では有り得ないし、優しくできないことも辛く当たることも人間だからあるのですが、それでも少しだけ、世界に対して優しくなれたような気がします。
スマートフォンを覗き込むことで目に見えない世界に閉じこもり、目に見える世界に対して蓋をするくらいなら、ちょと顔を上げて周りを見渡して、縁なることを探すのもまた一興かなと思います。

と、いうことで今日は、縁があるということについて話していきます。

○縁があるということ。

ある時期を濃く過ごした人と例えば長く会わなくなったとしても、それで縁が切れたとはあまり思わない。例えば箱庭円舞曲の皆のことは週に一回は思い出すし、箱庭繋がりで知り合えた楽しい仲間たちのこともふとした瞬間に思い出す。モノフォニの大石君のことも二日にいっぺんくらいは考えるし、モノフォニに出演してくれた人のことも考えるし、中学や高校の時の同級生のことも思い出す。家族のことは毎日考える。ツイッターやインスタグラムで目にしなくても。何年も会っていなくても。好きだった人とか。

この間BATIKの伊佐ちゃんと大石君とご飯を食べたんだけど、そういえば伊佐さんとは彼女の結婚式以来会ってない! ということに気付き、ちょっとびっくりした。でも、だからもっと頻繁に連絡を取らなきゃ! とは思わなかった。それが僕のペースなのかもしれない。

だから僕は、何年も会わないことを寂しいことだとも義理がないことだとも冷たいことだとも思わないことにした。連絡を取らないことも、そうは思わないことにした。向こうを不安にさせていたり不快にさせていたりするかもしれないけど、僕は僕が連絡を取りたくなったらあなたと連絡を取ろうと思う。勝手だけど、そういう気の遣い方はしないことにした。

なんだか不思議だなあと思うんだけど、ツイッターで多く見かけるとしても、全然身近に感じないなあということもあるし、毎日のように会っている時の方がその人のことを考えなくなる人もいるし、この感覚はなんなんだろうかと考えたりする。

多分、僕は思うんだけど、この、ふと考えてしまうということが、縁があるということなんじゃないかなと思う。

亡くなった人のことは、ほとんど毎日考える。祖父のことも考えるし、山形の大親友のことも考えるし、大好きな韓国の女優の仲間のことも考えるし、照明でお世話になった姉御のことも考えるし、7月28日が命日の泉政行さんのことも考える。本当に毎日毎日考える。0.1秒にも満たない時間でも、ふとした瞬間にイメージが沸き上がって来て、彼らのことを考える。

この営みが縁であると考える。

もちろん、なんだかよく会いますねえということも縁だし、あの時のあの仕事がまさかこんな形で繋がってくるとは、ということも縁だし、ああ、あの方と繋がってらっしゃるんですね、ということも縁だし、そういう正当な意味での縁も凄く感じるんだけど、なんとなく考えること、忘れないこと、意識すること、それらの全てが縁。あなたと出会えて良かったという類の心の働き。

○縁を繋ぐということ。

この業界に身を置いて十七年目に入っているんだけど(高校時代を含めると十九年目に入ってますけど、いつもこの時期をキャリアに含めてもいいのかどうか迷う)、多分なんですが、面白いとか面白くないとか、上手いとか下手とかは実は、この業界で残っていくこととはほとんど関係ないんですよね。まずシンプルにやめない人が残っていくんだけど、年齢が上がっていくと、人に対して不義理な人は段々少なくなっていくような気がします。

結局残っていこうと思うと人との繋がりを大切にしないと続かないんだなあという考えに至る。この繋がりはヤバいからあえて切ろうということも当然あるけど、いまだに不義理をしてしまって繋がりを失うと、死ぬほど後悔する。その人と一生会えなくなったと思って眠れないほど辛くなる。仕事を失うという意味でもそうだし、人生の一部を失ったという意味でも、大きな痛手で。どうかまたいつか、相見える日が来ることを願うんだけど、そのためにはもう、真摯にいい仕事をやり続ける以外の道がない。

人に対して尊敬や興味のない人が作るものを面白いと思わないしどうでもいいなと思うんですよ。だから自分もそうあるべきだと思うし、無理にそうなるよりは自然とそうであることを目指していかなきゃいけないし、そのためには決して慢心してはいけない。それでも慢心することはあるから、その時に再度自分を締め直せる自分でありたいと思う。難しいけど、できれば。

一つの仕事からどんどん他の仕事に繋がっていって、気持ちが大きくなって、だからこそ疎かになりがちで、油断して、それで仕事を失うと同じくらい繋がって仕事を失っていく。だから、常に崖の上を歩いているような気持ちで生きています。うなされて目を覚ますこともあります。

縁があることの中には運が多く含まれているのかもしれませんが、縁を繋ぐことに運はそれほど介在しない。ほとんどが努力なんじゃないだろうかと思っています。

○技術を磨くということ。

演ずることも書くことも「上手い」というだけで仕事を得るのは難しい年齢になっています。こんだけやってりゃ多少技術があっても当然なので。それでも技術を磨き続けようと思うのはどちらかというと、仕事を得るためではなく仕事を得た時に技術がないと、次に使ってもらえなくなるからで。三十過ぎて技術がない人、時間が掛かる人は大抵次に呼ばないんですよね、自分が選ぶ立場の時は。それならまだ若くて勢いのある人を選びます。

だからずーっと、使わない時も刀を研いでいることが大事だなと思っています。
今必要なことだけじゃなく、いつか必要になることも積み重ねておく。そうやって過ごしていけたら。

演ずることに対してマニアックであることがとても大事で、例えば先日終演した公演で、紙のカップに入ったコーヒーを持って来るというシーンが何度かありました。買って来たばかりの時はもちろんいっぱいに入っているわけなので持ち方もそういう持ち方になります。このシーンが終わって次のシーンに場面転換する時、時間が飛んでもう帰るという段になっているわけですが、ということはカップの中身は限りなく空に近付いている。なので、このカップを持つ時に持ち方を変えることで、俳優の手の演技だけで時間経過を表すこともできるわけです。こういうことばかり考えています。

こういうことを、必要に応じるわけではなく常に考えていると、咄嗟の時に非常に役に立つと思っています。

先日まで河原雅彦さんの演出する稽古場にいたわけですが、河原さんといえば華やかな演出のイメージがありますけど、稽古場で感じたのは読解力の高さ。こちらがやりたいことや考えていることなんて全部お見通しなわけです。それがすごく嬉しかった。技術の裏打ちなく一線にいる人はやっぱりいないんだと思います。そうであるべきだと思います。

さくリさく企画『Solace-慰め-』、無事A・B両面公演を終えることができました。ご来場くださった皆さま、応援してくださった皆さま、スタッフ及びキャストの皆さま、ありがとうございました。米内山さんの脚本を演出できたのが本当に勉強になりました。僕が書いた方の脚本も、また何度か上演していただけたら嬉しいなと思います。

構成協力で関わった『オリエント急行殺人事件』も閉幕いたしました。またポアロの出て来る作品に関わりたいです。

今年は出演も多いのですが、来年以降はまた脚本・演出が増えていきそうで、追って色々情報公開いたします。

自分の限界は幸いにもまだ見えず、全て次への課題という形で立ちはだかってくれるので、ありがたい限りです。

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