まず誤解のないように説明しておくと、河野と俺は基本的には仲睦まじいカップルなわけで、六年付き合ってその期間中に意見の衝突はあっても決定的な喧嘩のようなものは全く無かったし、「別れよう」なんて話も一度も持ち上がらなかったのだ。それは今だってそうで、俺の方にごちゃごちゃとした余計な想念があるだけで、やっぱり基本的には仲睦まじいことに変わりはない。ただ、問題は俺のそのごちゃごちゃとした想念といった奴で、男のそれはプライドと相まってどうしようもなく意識を支配してしまうものらしい。
俺と河野の関係性は、俺たちが大学を卒業して俺の方はしがないフリーター生活をしながら売れる見込みもない小説を書き始め、彼女の方はきちんと出版社に就職してほとんど二人の生計を賄うようになっても変わらなかった。大体俺にはその辺りの自尊心とやらが欠落しているらしくて、うちの親父には「男なら」なんてことを愚痴っぽく漏らされることもあったが、そんな言葉もどこ吹く風、全く気にもならないのであった。
俺のプライドとやらはそこではない、もっと別の所にある。
そんな生活が四年ほど続いて俺も河野も二十六歳になろうとしていた時、それは起こった。河野は醍醐正重(本名である)という名の、今売れに売れ乗りに乗っている小説家の担当に抜擢されたのだが、今思えばそれが全ての始まりだった。
誰だって自分の人間的な小ささなんてものは目の当たりにはしたくないものであろう。もちろん俺だってそうだ、自分が卑小な人間だなんてことを知るのは耐え難いことだ。でも時に、どうしてもそれを自覚しなければならない瞬間というものは、訪れてしまうものらしい。
「実はね、小説書いたんだ」
「ん?」
それはある日曜の暖かな午後のことで、俺は昼飯を作っていたし、河野は河野でパソコンに向かっていて、俺たちはよくそんな風にお互いがお互い自由にしていることを楽しんでいたが、その話を河野が持ち出したのだって、全く脈絡のない彼女の気ままなタイミングによってだったのだ。
「醍醐先生に勧められてね、小説家を理解するには小説を書くしかないって言われてさ。吉野に相談しようかと思ったけど、まぁいいやって適当に書いたの」
俺たちは大学時代の習慣が未だに抜け切らず、二人して名字で呼び合っていた。友人たちには訝られるが、こっちの方が気楽だった。
「ふーん、それで?」
「そしたらさ、それ先生に見せたら面白いじゃんって言われて」
「どんな話?」
「うーん、一言で言うと女の子が何度も生まれ変わる話?短編だけど。で、それを雑誌に載せてもらえることになって」
この時、俺の心中が穏やかでなかったことは言うまでもない。この四年間で俺が様々な出版賞に送った小説の数は計十六、内長編と言ってもいい長さのものは十である。
それではその内の一体どれだけが何らかの賞なり評価なりを受けたか?皆無である。一つも、である。二、三編は一次審査までは通過した。しかしそれだけである。大体は自分が送ったことさえ忘れるほど何の音沙汰もなく、もしかしたらちゃんと送られていないのでは、と思って出版賞を主催する出版社に問い合わせてみれば、「残念ながら選考に漏れました」のただ一言、もしくは「お答えできません」で一蹴されるのみである。それが四年間続いたのだ。
それがどうだ、適当に書いたと言い切る作品が雑誌に載ってしまうとは…しかしこの時の俺はまだ堪えた。堪えたと言っても一体自分が何を堪えたのかは分からなかったが、とにかく堪えた。いつか自分も、という思いが確かに自分にはあったからである。今度は長編を書いてみるつもり、と言い出しやがった河野に対して「うん、頑張ってみなよ」、と多少上に立ったつもりで言うことが出来たのも、そんな俺の捻じ曲がった余裕のない余裕から来ているわけで、やはり心中では嫌な焦りとでもいうか、とにかく形容しがたい感情が蠢いていた。
それから約三ヵ月後、河野の書いた小説がトントン拍子で出版され、さらに二ヵ月後に芥川賞を受賞してしまった時にはもう、俺には彼女を手放しで祝う気持ちは欠片も残ってはいなかったのだ。
~つづく~