どーも、須貝でした~。
2005年の五月に始めたこのブログもはや二年、今月で三年目に突入いたします!全く早いもので、当時大学生だった僕もいつの間にか卒業していました。
書いている文章はまぁ進歩ない感じではあるのですが…とりあえず皆さん、今年一年もよろしくお願いしますということで。
さて、話は全く変わりますが、今朝自転車でバイト先に向かっている途中に、道路の上に雀の亡骸が一つ、落ちているのを見かけました。落ちているというと表現としては不適切なのかもしれませんが、実際にそう感じたのです。
車にでも轢かれたようです、羽は逆立ち、口から血と内臓を吐き出して、アスファルトの地面にへばりついていました。以前同じ場所で犬の死骸を見かけましたが、その犬も事故に遭ったようで、もしかしたらそういうことが起こりやすい所なのかもしれません。
虫の死骸を見てもそれほど湧き上がっては来ないこの感情は、一体なぜ命を失った雀や犬の亡骸を見ると途端に顔を見せるのでしょう。
この感情、痛そう、可哀相、気持ち悪い、怖い、そういったものがないまぜになったものではあるのでしょうが、何かそれだけではないものを感じることがあります。果たしてそれは、一体何なんでしょう?
死を恐れる気持ちからでしょうか?しかしですよ?僕は雀でも犬でもないし、彼らと同じ恐怖や痛みを共有出来る訳でもないし、少なくとも僕はその亡骸を見てすぐに自らの死とでもいったものを強く思うわけではないのです。もちろん連想はしているのかもしれませんが、それは知能というか理性というか、そういう部分から来るものであって、もっと本能的に感じる何か、のような気がするんですよね。
転がる亡骸は、それは最早雀ではなくかつて雀であったもので、いくら僕の想像力が逞しくあったとしても、それを飛び交う雀たちと結び付けて考えることは出来ないんです。
命を失った雀は命を失った雀として完成しているんです。
僕は人の亡骸を見たことがないんですが、生きている時のその人と、死んでしまった後のその人は最早別の存在で、僕たちが悲しむのはその人の死という事実そのものではなくて、その人が失われてしまった空間に対する悲しみというか、今まで共有していた時間がもう永遠に得られないんだという悲しみというか。当然かもしれないんですけど。
しかし、じゃあ今までどの時間も共有したことのない雀や犬の亡骸に対した時に湧き上がるあの気持ちは、何なんでしょうね?
あまりにも完結してしまっていることが、それ以上がないのだということが、恐ろしいんでしょうか。
でもそう思う反面、死っていうのは、何かが終わることじゃなくて、何か別の物に成り代わることなのかもしれないなぁ、なんて思ったり。脈絡ありませんけど。
暇だからこんなことばかり考えるんだろうなぁ、きっと。