聞き耳を立てるということ。

どうも、須貝です。

2020年に入ってから諸々の打ち合わせとプロットの作成、そして舞台やら映画やら読書やらのひたすらなインプット、加えて人と会う時間、有意義に過ごさせていただいております。

そしてついに、という感慨がありますが、情報公開されております。
そこそこ本格ミステリ『照くん、カミってる!~宇曾月家の一族殺人事件~』、脚本を書かせていただきます。改めて見ると詰め込まれた要素がめちゃくちゃなタイトルだな…。いいな!河原雅彦さん演出、Hey! Say! JUMPの知念侑李さんが主演です。グローブ座です。これ以上のセッティングあります?震えます。詳細は以下のURLから。今後出演者の方の情報などどんどん更新されていきますので、お楽しみに。

https://www.terukami.com/

今年は半分がこの公演に費やされるわけで。こんな幸せなことってありますかね。大阪にも行きますからね!と、いうわけで、2020年も今まで以上にバリバリやっていきたいと思っております。よろしくお願いします。

雑記です。

○聞き耳を立てるということ。

総じて脚本を書く作業はとても好きだし向いていると思うのですが、プロットを書くという作業が実は少し苦手です。苦手というか、精神的に最も辛い作業だと思っています。

作品を作るにはまず大前提として、プロットがあろうがなかろうが、どんな企画書だろうがなんだろうが、骨格のようなものが必要で、「この作品を観た後、世界や観客がどのように変わることを想定するか、望むか」という熱量があった方が良いと思っています。自分はそれがないとどちらにしろ最後まで書き切ることができないので、自分にとってはないといけないのでしょう。

もっと簡単に言えば「今、何を問題だと思っているのか?」ということが作品に表れるはずだし、「それに対して自分はこういうことを考えてみた」、もしくは「こういう風に向き合う人たちを描くことで、これについて考える契機にしたい」というプロセスがあった方がいいと思っています。なくてもいいんです。あり過ぎてもいけないんです。でも強いものを作ろうと思うと、そこには強い意志が働いていることが多い気がする。

それはジャンルを問わずあると思っていて、もっともっと簡単に言えば「で、結局何が言いたいの?」ということなのかもしれない。なくてもいいんです。あり過ぎてもいけないんです。偉そうに上から目線でよく知らんやつに言われても腹立つでしょ。誰だよあんたって思う時もあるでしょ。距離感を大事にしたいんです。でも何もないものもそれはそれで寂しいもんで。

「問題」というと大きなことであったりとか大事なことであったりとか高尚なものであったりとかしなければいけないように思われるかもしれないのですが、別にそんなことないです。全ての作品が民族問題や宗教問題や人種問題を扱っていなきゃいけないとは全然思いません。「ニューヨークに行きたいのに、お母さんが全然お金を出してくれない」とかでもいいんです。マジで何でもいいんです。その時一番強いこと、引っ掛かること、気になって夜も眠れないこと、そういうことが一つでもあれば作品は書けます。ずーっと同じ問題を扱っていてもいいんです。現に僕は「自殺」とか「子供」とかそういうことをよく題材に選びますし。そういう人もいます。

プロットの話に戻ると、今最も強いことをいかに作品という形に落とし込むかという点が勘所になってくるわけですが、この作業がなかなかにストレスフルです。今の自分が一体どういうことを考えているのか、どうしたいのか、どうなりたいのか、そういうことどもを、自分の中の深い所から響いてくる声や音に聞き耳を立てながら探らねばなりません。

作品の骨子を作っていく作業は例えるならば、やってやるぜ!とたぎる心の炉の中に、自分が得られる限りのあらゆる全てを、例えば本とか映画とか取材して得た事実とか実体験とか、目にしたものや聞こえたこと、そういうものを燃料にガンガン投げ込んで燃やして、そうやって燃やし尽くした灰の中から一粒の宝石を拾い出すような作業であると考えています。

それを世の中に買ってもらうために、まずはどの媒体で宝石を売り出すかを考える。カットするだけでいいのか指輪にするのかネックレスにするのか、はたまたたくさんの宝石を集めて王冠を作るのか。それはつまり、ブログで言うのか戯曲を書くのか映画にするのか、のような選択なのではないかと思います。例えば戯曲を書くという行為はその宝石が最も美しくなるように指輪をデザインして彫金していく作業で。ということはそれを身に付けるのが俳優で、ドレスや夜会服をデザインするのが演出家で、ファッションショーを主催するのがプロデューサーなのかもしれませんね。

指輪のデザインや金属の加工の仕方でも十分いいものには仕上がるんですが、やっぱり主役は宝石だと思う(物語というたとえで言えばですよ。シルバーリングももちろんカッコいい)。何を書くかというのはやっぱりすごく大事な問題なんです。

死ぬほど薪をくべても何も得られない時もありますしねえ。結構あるんだよなあ。でもその時の経験はゼロにはならないんですけどね。前にあれ調べたっけなあとか、これ読んだことあるなあとか。全てが血肉。横着してガソリン入れたら爆発して何も残らなかったりね。何のたとえだこれ。話題性のあることとかトレンドとかに飛び付き過ぎても危ないってことだろうか。

実は日常的に私たちは、大きな声を上げている。心の奥底で。それらのどれだけを掬い、救い、取ることができるのか。聞こえないふりをしてはいないか。今日のお昼何を食べたいのかな自分は、とか、このマンガ買いたいけど買っていいかなあ、とか、あの人になんか一言言ってやんねえと気が済まねえなあ、とか。全てを優先してあげることは難しいかもしれない。でもこの世界で私だけが私のそういう言葉に聞き耳を立てることができるのだから、是非世界平和のために、あなたの声にあなたが耳を傾けてあげてほしいのです。その連続で世界を素敵にしようじゃありませんか。

○何かを削ってみるということ。

実は最近、スマートフォンのホーム画面からTwitterのアプリを消してみておりまして。ホーム画面っていうか、スクロールしても出て来ないようにというか、なんていうんですか、アプリは消してないんだけど、すぐにアクセスできない状態にしておりまして。で、通知だけが届くようにしているんです。だから色々、リツイートしていただいたりいいねしていただいたりフォローしていただいたりコメントをいただいたり、そういうのは全部追っかけているんですけど、タイムラインを見る時間をすごく減らしたというか。

それはまあ、なんかずっと見ちゃうなあと思ったり、やっぱり全部の情報を見たいかというとそうじゃなかったり、嫌だなあと思うことも知ってしまったりするわけですよね。で、代わりに新聞のアプリを入れたんですよ。だから最近はずっとニュース見てます。

一度手に入れたものを手放すのって難しいなと思ってまして、Twitterのアプリくらいで何を言うのさと自分でも思いますけど、小さなことで生き方のサイクルが変わるのを感じるのが面白いというか。

それから、自分は表現に携わる仕事をしているので、何をどう発信するかということを慎重に考えなければいけないと思うんですけど、言いたいことが140字に収まらないんですよね。どう頑張っても。媒体として利用できる時はもちろん使いますけど、自分はやはり、ちゃんと誤解がないように、ちゃんと言うべきことはちゃんと言える場で言った方がいいと思いまして、そのためにブログを使えばいいなと。
いつも本当はもっと短く簡潔に書いた方がいいんだよなと思いながら、書きたいだけ書いてます。その中から何を切り取っていただくか、感じ取っていただくかをお任せできるのも僕は好きです。同意することもしないことも両方あっていいし、参考にならないこともなることも両方あっていいと思う。

短い言葉だと、その裏にあるものを変に想像しちゃうから、それで怒りが増大するところもあると思うんです。人間の想像力って多分我々が思う以上にすごくて、自分で焚きつけてしまった怒りって自分の力で消せないことがあるなと感じることが多くて、発散するのが難しいのではないかと思います。

ま、短い言葉に正確なニュアンスを込めるのがプロなんですけど。

話は変わりますが、日本が今後本当の意味で先進国になっていくためには、得ることのみに目を向けるのをやめねばならないと思うのです。矛盾して聞こえるかもしれませんが、足りない人が足りるように頑張るのは当然ですが、足りた時にどうするのかということを試されている気がします。「足るを知る」って言葉がありますけど。豊かであることが先進国であるとは全く思わない。例えば貧富の差を示すジニ係数が低い国が先進国だと思う。お金出してんだからいいでしょってスタンスの国よりも、実際に海外でちゃんと何かの問題を解決した実績を積み重ねる政府の方が優れていると思う。

優しくあるべきとも思わないし、偽善は嫌だなと思うし(ないよりはいいかもしれんが)、それぞれのスタンスはあるけど、僕はやっぱり、この世界の素晴らしさにたくさん触れさせてもらった人間として、そうではない人たちの存在を知る度に、公平じゃないと感じる。それが異常である気がして、そのために自分が何をできるのかを考えるんです。

もう持っているものは、再び手に入れてもいいけど、今度は誰かにあげてみてもいいと思う。素晴らしい体験をできたと感じるのであれば、今度はそれをどう共有するかを考えてみてもいいのではないかと思う。

○私が好きな美術館のこと

改装した東京都現代美術館に行って来ました。どこがどう改装したのか僕にはよく分からなかったけど、常設の彫刻とかが変わったっぽい。椅子とかも変わったっぽい。

ちょうど皆川明さんのミナペルホネンの展示がやってたので観ました。ダムタイプもやってたので観ました。どっちも何にも知らずに見ました。どちらも面白かったです。
ミナペルホネンの方は平日だったのにかなり混み合っていて、ほとんど女性のお客様で。洋服のブランドの展示であることすら知らなかったのでびっくりして面白かった。部屋一面の服たちの展示とかミナペルホネンの服とその思い出をパッケージしたような展示とか、素敵でした。来ている方もミナペルホネンの服を着ている方が多くて、展示も鑑賞者も展覧会の全てって意味で、演劇的だなと思った。展示と同じ服を着ている方を見ると、ああ、着るとこうなるんだ、って面白さがあった。そういう点ではマリメッコの展示と近いものがあるなと感じました。

個人のデザイン、手で作ったものという不規則を、テキスタイルという規則に置き換え、かつそこから既製品を作っていくという工程に興味を覚えました。これは表現の全てがそうだと思っていて、僕という個性、何にも収まらないものを世の中に収めるために形を整えたり一般化したり抽象化したりしていく、そういうことがどんなメディアでも起こっている。
タンバリンというドットの連なったサークルのデザインがあるんですけど、それは刺繍の技術の向上によって実現されたもので、これも多分同じ。技術があれば不規則を不規則のまま商品にできると思うんです。個性的とか独立的とかそういったものも結局実現するための技術があって成り立っていて。だからやはり、技術。技術があれば再現性もありますしね。再現性のあるものはたくさんの人に届けることができる。海も超える。技術を磨かなきゃ。

ダムタイプの方は『LOVE/SEX/DEATH/MONEY/LIFE』という展示がすごかったです。レール上を動く蛍光灯に照らされる床面の文字、正面のディスプレイ、その組み合わせがカッコよかった。「情報過剰であるにもかかわらずこれを認識できていない状態」(サイトから引用)っていう思想が言い得て妙だなと思ったし、それがバブル期の日本で生まれたということが面白いと思った。熱狂の中にあったからこそ、危機感を感じた人たちがいたんでしょうね。パフォーマンスの記録映像の展示が多かったんだけど、それらの全てを最後まで観られなかったのが残念でした(時間の長さのために)。

で、ここでも何度か喋ってますが、やっぱり自分は美術館でバシバシ写真を撮るのが好きになれなくて。大体自分は荷物を全部コインロッカーに預けちゃうんで、携帯も展示室内に持って行かない。もちろん撮る時もあるけど、空間を楽しみたいと思うと、記録することに執心しちゃうのは逆に損してる気がしてできないんですよ。

あと、後でその写真見返すかなあ…って思っちゃうともう撮らない。これは写真に不慣れだからでしょうね。でも塩田千春さんの展示は撮ればよかったなあと後悔しました。

○あなたの悲しみについて考えてみた

あなたの悲しみについて考えてみた
あなたはどうもこのところ悲しいらしい
楽しくやってもいるようだけど
悲しいらしいところもあるようだ
だからあなたの悲しみについて考えてみた

あなたの悲しみの全てを引き受けられたらいいのに
あなたの苦しみの全てを私一人のものにできたらいいのに
あなたの怒りの全てを私の腹の中に溜め込めたらいいのに
あなたが辛いと感じるその度に、それらが全て私の記憶になればいいのに
そうしてあなたからそれらのものが遠く離れていけばいいのに

それが難しいことだとしても
ありえないことだとしても
それを願うことをあなたに寄り添うことと考えたい
あなたの悲しみについて考えてみた
足りない私が考えてみた

最近あんまり会ってない
連絡もそんなに取ってない
それでもあなたのことをずっと考える
朝起きる度に夜寝る度に
あなたの悲しみのことを考えて
あなたの幸せのことを考える

○個性とか才能とかいった言葉に押し潰される必要がないこと。

個性なんて言葉は、あらゆる選択の組み合わせでしかない。私たち一人一人が、あらゆる選択の組み合わせを総合したものであるだけ。ラーメンが好きでカレーが嫌いで…という選択を何千何万繰り返していけば、絶対にその人は規定されてくる。個性的でないという評価は、その評価を下した人の質問が足りていないだけだ。個性という言葉は突出していることや世界一優れていることを指しているわけではない。あらゆる選択の組み合わせであると考えれば、自ずと誰しもが一つしか有り得ない存在だと言える。

才能は、何かができることでしかない。同じく、突出していることではないし世界一優れていることではないし愛されることではないし人気があることではない。もしかしたら何かができないことも才能かもしれない。

世の中があなたにそれを求めたからと言って、世の中が求める個性や才能は結局世の中のためのものでしかないのだから、気にすんな。

最近あんまり本読めてないのですが、少しずつ読書習慣も取り戻していきたいと思う今日この頃。書斎がほしい。もしくはオフィス。大富豪になったら図書館をオフィスにしたい。

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