毛嫌いする表現の話。

どうも、須貝です。

人に対して決してするなとは言わないけど、自分ではやらない、見たくないという表現や展開がありまして、その話をします。

○男性が女性の頭をポンポンするやつ

大嫌いです。虫唾が走ります。吐きそうになる。女性をバカにした表現に感じます。大体男性目線が主なアニメやドラマで見かけることが多い気がする。主人公がポンポンして、女性がキュンとするみたいな。するか?キュンキュンするのか?好きでもない男に(まあ多少の好意があったとしても)急に頭を触られるってだけで気持ち悪いのに、さらにキュンキュンするのか?子供扱いしてバカにしているように見える。こういうのを見て、女性は頭をポンポンしたら喜ぶと考える人が増えたらどうするんだろう。

そもそも実際、女性は頭をポンポンされて喜ぶものなんだろうか?これは議論の余地があるかもしれない。少なくとも自分がもし頭をポンポンされたら腹が立つと思う。好きな人なら気にしないかもしれないけど、僕が好きな人に僕の頭をポンポンする人はいないからなんとも言えない。実際に頭をポンポンする男子に会ったことないんだけど、皆やってんのかな?

男性の距離感が(物理的に)近い、みたいな表現もあんまり好きじゃない。普通に失礼じゃない?あの、急に顔近付けてきてドキッ!みたいなやつ。パーソナルエリア広めの人からしたら普通にハラスメントだと思うんだけど。壁ドンとか恐喝じゃん。訴えたら勝てますよ。そんなに親しくない内から顔近いとか普通に生理的に無理じゃない?どんなにイケメンでも無理なんだけど。逆にどんなに美人でも急に顔近付けられたら俺嫌だよ。

○特に理由もないのに一人の男性を複数の女性が好くやつ

妄想でしょ。ないよ。だって理由がないんだもん。目立たない俺とか地味な俺とか何のとりえもない俺とか、相応な理由がなきゃそんな複数のかわいい子から好かれないと思うんだけど。相応な理由があっても、それが成り立つとしたら人類が滅ぶ気がする。相性ってもんがあるし。妄想と物語の境目がないと感じる。

もちろん大抵はその男子が優しかったり女子のために何かしてあげたりするわけなんだけど、百歩譲ってそれはいいとして、ひどいのは本当に理由がない。女子をバカにしてんの?女子って男子を好きになってくれる便利な存在なの?男子のために女子が存在してんの?女性はお前らの道具なの?欲求を満たすためにだけいるの?レディファーストどころかレディラストなの?バカにすんなよ。

そしてその中から一人を選ばなきゃいけない…みたいな葛藤も本当にどうでもいい。お前が本当にその人たちを大事に思うなら全員選んで全員満足させればいいだろうが、とか思う。全部お前の管理能力と交渉力と経済力の問題。お前が男気見せりゃいいだけの話だろ。なにうだうだ悩んで女の子たちをやきもきさせてんだ。お前が踏ん切りつければ他の子たちも次にいけるだろうが。特に取り柄もねえ男のくせに全員をゆるく彼女候補でキープしてんじゃねえバカ。僕は不倫とか浮気とかは当人同士で話せばいいことだと思うし、他人がそれらに対して批判したり倫理感振りかざしたりするのはナンセンスだなと思ってるんですけど(だから不倫に関する報道とか本当に興味ない。どうでもいい)、妻と愛人の両方を養う経済力とか満足させる包容力がない男は不倫しちゃいかんと思う。

あと、そういう男子が鈍感で全然気付かない、みたいなのも多いけど、そもそも経験上、鈍感な男はモテないと思う。まあすぐ気付いちゃったら物語として七話くらいで終わっちゃうから仕方ないんだけど。

まあこれ、少女漫画でもあるか。登場する男子がみんなその子好きになるみたいな。あるな。でもなんか、少年誌の方がムカつくんだよな。少年誌の方が根拠が薄く感じるからかな。

違う話ですけど、『タッチ』の南ちゃんが嫌いで、昔から。こんな女いたら女子から嫌われない?と、子供の頃から思ってました。完璧過ぎるというか、本心が見えなくて気持ち悪い。なんらかのトラウマ抱えてんのか?元祖AIか?などと思う。男目線の女性の理想像のように感じるから嫌いなのかな。あと、「南はほんとにいい子」みたいに言ってる周りの女子の描き方が手抜き過ぎてそれも嫌だった。全ての男子が南ちゃん好きみたいなのも全然理解できない。嫌いだよ、俺は。『H2』と『ラフ』は好き。

○主人公以外の扱いがひどいやつ

主人公以外の登場人物に手を抜いてるのがほんと嫌い。神は細部に宿ると考えているから。自分もそうならないように細心の注意を払う。誰かを作品に登場させるからにはその人の人生とちゃんと向き合わなきゃいけない。
ドラッグでハイになったやつが銃ぶっぱなすみたいなのも、詳細がないと納得できない。なんでそいつドラッグにはまるようになったの?どっから銃手に入れたの?それを撃って何を倒したいの?そいつはどういう哲学で生きてんの?安易な考えから、銃撃戦のシーン書きたいからとりあえず頭おかしいやつに銃撃たせりゃいいっしょみたいなことだとしたら問題だ。偏見と無理解の塊ということになる。これは例えばの話ですけど。

役作りする時に絶対にやっちゃいけないことが、「こいつはバカだから」とか「こいつはおかしいから」とかで行動の理由を掘り下げるのをやめちゃうこと。絶対なんかあるから、理由や経緯が。その役のそういうのを世界で最も理解すべきその役の俳優が自分の色眼鏡で役作りやめちゃダメだ。

『ノーカントリー』でジョシュ・ブローリン演ずるルウェリン・モスが、麻薬の取引がこじれて銃撃戦になった現場から大金を持ち逃げするんだけど、そこで瀕死のメキシコ人に「水(アグア)」って言われて、その時は「ない」っつって去る。でも夜になって水持って現場に戻っちゃう、ってのがすごく好きなんです。バカげてるんだけど、ルウェリンはそういう男なんですよ。そのせいでマフィアに追われることになるんだけど、それでも水を持って行くんですよ。

本当かどうか知らないんだけど、黒澤明監督が何かの撮影中に、『夢』だったかな、撮影を不意に止めてエキストラの女性に、「おばさん、トイレ行って来ていいよ!」って声掛けたって話、すごく好きなんですよ(その方は恥ずかしかったと思うけど…。)。うん百人いる中の、ですよ?すっごい遠目にいる人。それを目標にしなきゃ。

僕、『ハイキュー!!』が大好きなんですけど、ハイキューはすごいですよ。もう一人一人に人生が見えるもん。一人一人の背後に一人一人の部屋とか家族とか食べ物の好みとか見えるもん。あんくらい命懸けなきゃ。ラストの試合の辺りで全員の今の様子がガンガン出て来る所とか泣きっぱなしですよ。『ちはやふる』で肉まんくんと机くんを表紙にした末次さんを尊敬しなきゃ、皆。

キャラクターを主人公に何かを起こすための道具にしか思ってないってのはダメだと思う。それは物語の作り方としては正直間違ってない。普通あらゆるキャラクターは主人公に変化を起こすために存在するから。そうなんだけど、皆が皆自分の人生の主人公でしょうが。蔑ろにすんなよ。

主人公にドラマを起こすためだけに誰かが死んだりするのもすっげー嫌いです。ドラマのためのドラマというか、展開のための展開というか。ここでこれが起こんなきゃいけないからこうなるみたいな。大嫌いです。ふざけんな。人の命をなんだと思ってやがんだ。登場人物が死ぬのはしょうがないよ?だって人は死ぬから。創作物の中でだってそりゃ人は死ぬさ。でもさ、殺すなら本気で殺せよ。半端な覚悟で人の死を描くな。安い涙のために命を使うな。そういうのはまあ泣いちゃうんだけどさ、心の中では怒ってます。

ニッチな話だけど、そして全然関係ないんだけど、演劇とかでたまにある、誰かが倒れる→「○○さん…?○○さん!」→暗転で転換→ブリッジで救急車の音→明るくなったらその人死んでる、みたいな表現ってなに、腐った伝統芸能なの?

※暗転=舞台上及び客席を真っ暗にして場面を転換する手法。
※ブリッジ=場面転換の際に流れる音楽や効果音。

主人公に目が向くってのはあくまで構図の問題で、切り取り方の問題で、画角の問題なだけなんです。決して世界は主人公たちを中心に回ってないんです。そのフレーム外にどれだけの世界が広がってるかってことが作品のリアリティなわけで。
最近の物語はとみに主人公に都合よく進み過ぎているきらいがあるというか、他に目を向けていない、内向きな作品が増えている気がします。「葛藤がない」、「努力や競争によって獲得していない」、「不都合なことは他人にしか起こらない」っていう発想が見え隠れする。

物語ってもちろん、逃避でいいんです。逃げ込む場所でいいし、絶対に安全なシェルターでいいんですよ。僕にとってもそれはそうだし。それは否定しない。でも、たとえ1%でも現実に還元されなきゃ。現実に向き合う力も少しは得られなきゃ。逃げ場でありながら同時に、逃れようのない今を生きるためのものでもなければ。100%の逃避はダメだと思います。間違ってる。なぜなら結局僕らが生活しているのはこの現実世界の方だから。

あとは薄っぺらい恋愛ものも内向きになりがちだと感じる。いや、素晴らしいのは素晴らしいですよ。恋愛ものは好きなものも嫌いなものも同じくらいある。

誰が言ったか忘れちゃったけど、『卒業』でダスティン・ホフマンに花嫁連れてかれた花婿超かわいそうみたいな、その通りだと思います。あとあの二人絶対うまくいかないよ、あの後。

『あと1センチの恋』って映画があって、別にこの映画の出来不出来の問題はここで論じないわけですが(素敵なシーンもあるので)、印象的なカットがあって。主人公たちが街中で口論するシーンがあるんだけど、結構な大声で話してるのに、街の人たちが全く主人公たちを見ないんです。これ、おそらく意識的に作ってるんだけど、世界は関係ないんだよね。すごく恐ろしくて。どんだけ自分勝手に生きてんだって気持ちになりました。こういう人が銃を乱射したりすんのかなって思った。俳優は悪くないです。

ライムスターの宇多丸さんが酷評してて面白かったんですが、『ルーキーズ』で試合中なのにさんざっぱら進行止めてニコガクの連中のドラマを進めるみたいなの、相手チーム待たせて何やってんだ?っていうご指摘、ごもっとも過ぎるというか。他者の存在を消すっていうのは本当に危険なんです。それはさっき言った、物語はあくまで世界の一部であるという考え方を故意に抜いてるんだよね。それは想像力を奪うやり方なんです。何度も言うけど、切り取って拡大することと、見たいもの以外を黒く塗り潰すことは全然違う。この、誰かの存在を意識的に抹消するっていうのは、ナチスドイツに代表される全体主義に通じる考えだと思うんですよ。大袈裟じゃなく。だから危険だと思う。

本当の悪は自分だけがそれと気付かずに、当たり前みたいな顔をして街を闊歩していやがるんだ。

○日本の戦争映画

日本って本当に敗戦と向き合ってるのかな?どうして日本の戦争映画って自分たちを美化する内容が多いんだろう。自分たちは被害者だと思っている感が否めない。確かに国民は巻き込まれたのかもしれないけど、政府や軍部だけが戦争状態への突入を支持したわけじゃない。日本国内にだって戦争への気運の高まりがあったから戦争状態に突入したわけで。それはある種の熱狂状態だったわけで。ということは、やっぱり当時の日本国民にも少なからず責任はあったはず。生まれた時にもう戦争が始まっていた、という人が一番の被害者だとは思うけど。

日本は核攻撃された唯一の国だけど、真珠湾を宣戦布告せずに攻撃した国でもあるわけで。双方の言い分があるからなんとも言えないことではあるが、当然完全な被害者ではない。そもそも戦争という状態に一方的な要因しかないということは有り得ない。そこに目をつぶって、特攻隊の青年たちを美化したり礼賛したり、空襲に逃げ惑うかわいそうな人たちばかりを描いたり、そういうのはフェアじゃない気がする。日本だって同じことをやったわけだから。

ある写真を見たのが忘れられない。なんでそれを見たかは忘れたんですが、ドイツで終戦直後に、軍人ではない一般のドイツ人たちを強制収容所に無理矢理連れて行った、という写真。彼らを一列に並ばせて、順に収容所を見させたんです。お前らはこれをやったんだ、と。「知らなかった」とか「申し訳なかった」とかいった反応だったようですが、ある者は泣き、ある者は恥ずかしさから顔を伏せ、それでも無理矢理見させられた。実際、収容所で何が行われていたか知っていたドイツ人は多くなかったのかもしれないけど、意図的に目をつぶっていた人もいたはず。本当は僕らもこのくらいつきつけられなければならなかったんじゃないだろうか。

そして、僕は思うんだが、僕たちにだって戦争責任はある。それはどうしようもなく引き継がれている。税金を払うのと同じように、日本人であるからには日本の罪を背負わなきゃいけないと僕は考える。「俺たちには全く関係ない」というスタンスでいることは危険というか、その考えだといつかまた戦争を起こす気がする。僕たちの中の日本人的な何かが戦争を起こしたかもしれないし、人間の歴史とは争いの歴史だから、そこからは逃れられない。戦争が終わったわけじゃなくて、七十五年間の休戦期間がまだなんとか続いているという風に考えている。

美化した作品が多いということの問題の根深さは、それを作る側だけではなく観る側にもある。要は、例えば日本がアジア圏で何をやったかを描いた作品が公開されたとして(そもそも予算が集まらないのではという可能性はいったん置いておいて)、それって多分興行収入的に絶対失敗するんだよね。つまり、僕らは観ないんだよ、そういう作品を。それがまずいと思う。そういうものも観るという種類の教養を僕らは持つべきなんだと思う(そう考えると『戦場のメリークリスマス』のすごさが分かる。映画的に全面的に好きかと言われると僕はそうでもないけど)。だから僕の考えとしては、日本の戦争責任を問いつつ、それでも日本の人が観たいと思うエンタメ作品を作ることが、僕らの仕事だと思うんです。

そして、日本が核兵器禁止条約を批准してないって、恥ずかしくって表も歩けやしねえや。

○妻と子供を殺された男が復讐するやつ

なんでいっつも殺されるのは妻と子供なの?弱いから?悲劇的だから?元警官とか元軍人とか元特殊部隊員とか妻と子供殺され過ぎじゃない?あと誘拐され過ぎじゃない?孤独な闘い強いられ過ぎじゃない?大丈夫?やっていけてる?

主人公の家で家族が殺されるっていうのは象徴的な表現で、要は主人公が帰って来れる場所、安住の地、仕事とは違う場所には必ず妻と子供がいて、それを奪われるってことが一番の悲劇である、ってことだと思うんです。つまり外で稼いでくる男性、家父長制度、それらを基盤にしているように感じる。しかし、もうそういう時代でもないんじゃない?俺なんかずっと家いるよ?でも『メンタリスト』は好き。

ジョディ・フォスター主演の『ブレイブワン』は絶対こういうのに対するアンチテーゼだと思う。映画自体への評価はさておき、彼女の色んなことに対する態度を見てると絶対意志をもって臨んだはず。

○女子が胸の大きさ気にしたり、男子が陰部の大きさ競い合ったりするやつ

くだらねえ。お前らの価値観押し付けんな。さっきも言ったけど好みだから。相性だから。多様性とか言っときながらこういう部分を画一化しようとすんのがやだ。

マンガとかアニメとかである、はっちゃけ女子が胸の大きいおっとり女子の胸急に触るみたいなのってほんとにやるの?女子は。俺が知らないだけ?女子高とかではあんの?これ、よっぽどハリウッド映画とかでナイスバディの女性見て男子がヒュー!みたいな方が健全だから。女子同士という形を借りて男子の妄想を満たそうとしてんのがズルいっつーかキモい。まあ女性もそういうの描いてるか。だとしてもやだ。

胸の小さい女子が大きい人の見てシュン…みたいなのってどうなの?実際コンプレックス感じるんだろうけど、なんかもういい、そういうの。飽きた。時代遅れもいいとこだろ。教育的にいいの?あと胸大きいの気にしてる女子も多いだろ。大丈夫だよ、君は君のままで美しいんだから。君をそのまま愛する人を君もそのまま愛しな。

スポーツものとか学園ものとか不良ものとかで男子たちが風呂入るシーンになると必ずサイズ勝負になるのもさ、なんなの?おっきけりゃいいみたいなマッチョな発想が愛のない勢いだけの男性の独りよがりなセックスという名を借りたレイプを助長すんじゃないの?大きいの嫌いな女子もいるだろ。物理的に入んないとか。もう嫌なんだよ、そういうノリ。大人になろうよ。

○バラエティ番組で「お父さん」とか「お母さん」とか「おじいちゃん」とか「おばあちゃん」とか「ボク」とか「お姉さん」とかで括るやつ

名前呼べ。尊重しろ。おめえのお父さんじゃねえわ。失礼だろ。必死に生きてんだ。ナメんなよ。

百万歩譲って導入はそれでもいいよ。まず自分の名前言え。その後相手の名前聞け。その過程ちゃんと映せ。飛ばすな。敬意を払え。敬意を示せ。敬意を省くな。

あと、日本のバラエティってなんであんなにテロップ出るの?ひどいと喋ってる言葉一言一句文字起こしするでしょ。出川哲郎さんがちょっとどもってたりするのもそのまま文字にするでしょ。失礼だよ。前にスタバの店員が吃音の方が自分の名前どもったのそのまんまカップに書いて炎上したやつ(SAMをSSSAMって書いたやつ)思い出すわ。っつーか出川さんの発言は普通に聞き取れるわ。俺たちをバカな人間にする恐ろしい計画でも進んでんのか?

しかもそれは別に、聴覚に障がいがある人向けじゃないしね。だってそれは字幕の機能あるし。海外ってどうなんだろ。

なんかもっとあったけど忘れちゃったな。また話しますね。
ここにあげたような表現や描写や設定がある作品の中にも、好きなものはもちろんありますよ。突き詰めれば品性の問題のような気もする。

僕にとって物語を書くという行為は細部に目を向けることで、均質化や画一化、風化させることや存在を抹消することへの反抗であり抵抗であり闘いなんだなと思う。これは同意を求めてるわけじゃないし教化しようとしているわけじゃない。僕のスタンスが。

それは不合理や不公平や理不尽や搾取に歯向かうことで、目を向けてもらうことで、僕自身が逃げずに向き合うことなんだよな。

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