極めて短編集(1)


『声』

 電話の向こうの彼女の声に少し聞き覚えがあると思ったら、あの猫の声だった。

 もう六年住んでいる中野には、馴染みの猫とでもいうか、少し特徴のある猫だったら大体、「あぁ、あいつか」と分かるような猫がいる。猫の多い街なのである。あの猫も、そんな僕の顔馴染みの内の一匹だった。

 その猫の腹は、不自然に膨れている。何か病気で大きな瘤が引っ付いているかのような、そんな不気味さがある。暫くそうやって「病気なんだろうか」なんて風に漫然と考えていたが、どうやらそうではないかもしれない、と思い始めた。

 どうも、妊娠した腹から、羊水だけを抜いて萎ませたように見える。そう思ったら、だんだんその腹部の瘤が、子猫の形に見えてきた。産めなかったのかもしれない。産めなかったままに、その死骸を子宮に収めっぱなしにしているのだ。

 その妄想が段々真実のように思われてきて、気味が悪かった。

 猫は、見かける度にみるみる痩せていった。あばらが浮くほど痩せこけて、ますます腹の子猫が形を成して浮き上がってきた。少なくとも僕にはそう思えた。乾涸びた子猫の死骸が、子宮の中で母親から栄養を奪っていくその様を、秘かに想像した。それがひどく薄汚いことのような気がした。

 ある時猫は、トボトボと総武線沿いの道を歩いていた。もう夜も十時を回った頃で、辺りは暗かった。ちょうどその後ろを歩いていた僕の前で、猫は自転車に轢かれかけ、草むらに飛び込んだ。

 その時、微かに一声鳴いた。それが、僕がその猫を見かけた最後である。

 電話の向こうの彼女の声は、小さく震えていた。収め続けたあの猫と、収めることをやめた彼女。

 今日、僕は父親になり損なった。その事実がまだ軽い。

~了~

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