毎日が退屈でしょうがないなんて言ったら、明治時代の悩み多き知識階級の青年のようだが、オレのソレはそんな大層なもんじゃない。
ただ単純に毎日同じことを繰り返しているのが、退屈に思えてしょうがないというのだ。ソレは例えばオレの場合、毎朝10時に出社して18時に退社する、忙しければ残業する、そんな会社と家の往復である。
そしてまた、家に帰ってからの過ごし方に関してもそうで、テレビを見るか、漫画を読むか、ちょっと元気があれば本を読むか、とにかく寝る前に何をするかの選択にのみ、退屈を打破する方法があるわけで、それにしたってどうせその三つの選択肢しかない。退屈で単調だ。
しかし、勘違いして欲しくないのだが、オレはそれが悪いとはさらさら思っちゃいない。むしろいいことだとさえ思っている。変化がないということが最も平和で、安心だ。退屈、結構じゃないか。毎日波乱万丈だったら疲れちまう。
毎日の出来事だって全てが全て同じわけじゃない。ちょっと今日は違うところで昼飯を食おうと思ってみたり、いつも話さない人と話してみたり、天気が違ったり、変わらぬ単調な毎日があるからこそ、そういった小さな変化が新鮮に思われるのだ。そう思ってみると、オレは幸せなのかもしれない。だから、オレはオレの日常に、突然の宇宙人の襲来や、運命の恋人との出会いや、大事故による記憶喪失なんて大事件は求めちゃいない。平和で安心な退屈の中に、時々異分子が紛れ込めば、それだけでいい。そう、そういった観点で見れば、俺は十分に幸せな男だった。
ある朝目覚めると、オレは曲がっていた。