どうも、須貝です。
5月23日のイングリッシュ商店5周年記念日に向け、頑張って500記事に到達しようと、今から必死こいて更新していこうと思っている、今日この頃です。なんなら555記事にまでいけるか、とか思ったんですけど、無理なんでやめます。
柿喰う客のれお君まー君は確か今日大阪に出発のはず。晴れてよかった。彼らの二人芝居も、初演も観ていた七味さんの一人芝居も、良かった。
れお君とまー君の二人芝居は、涙腺が緩んだ。二人を知っているからだけではなく、なんだか自分の中の思い出に関わる部分がぐらりと揺さぶられたからかなと、思った。彼らの物語にあるような思い出があるわけではないにしろ、何かしら似たような、自分の根っこを形作る何かを彷彿とさせるような、そういう普遍性がある反面、観客の感想としては個人的なような、そんなお話だった。誰しもの過去にあったはずの何かしらを、追体験させる話のような気がした。
今、ホテルニューハンプシャーを読み終え、角田光代さんの短編集を読んでいます。下がるなー、テンション。
久々に公演に向けた稽古もなく、ただただ生活のために働いて、お芝居を観、映画を観、本を読んで色々と思い、物を書き、朝は9時に起きて夜は1時に寝るという8時間睡眠、ご飯を作り、便通が良くなり、順調に血液はサラサラになり(なっているといいな)、桜は散って青葉茂り、もう夏の、その前の梅雨の、足音が聞こえてきます。
自分の周囲で自分が思っているよりも色々なことが動き始めていて、本当にそうしたいならそうしたいと主張しなければならないと思っていた先から何かお話を頂いたり、ありがたいことにお芝居で忙しくなりそうな今年と来年があったり。
そうやって演劇的にうまくいき始めている自分がいる反面、他の、日常的な自分がどんどん薄くなっていく印象を抱いています。お芝居をしていなければ、本当にどこからも必要とされない人間になっていっているようです。
少し前までは家庭を持つ自分を想像できましたが、今ではさっぱり、五十になっても一人で酒を飲んでいる自分の方がとても簡単に想像が付きます。
だからこそ、今自分が必要とされている(らしい、と思いたい)場所を失うことを、以前にも増して怖れているようです。他のものを失うことは、あまり怖くなくなってきました。
いや待てよ、それはお芝居がどんどん日常になっていっているということで、いいことなんだろうな。
いや待てよ、お芝居が日常の人でも普通に家庭を持っているよな?じゃあ家庭を持つ云々は僕の責任かもしれない。
なんてことを、つれづれなるままに想う4月。
この間山形に帰った時に、山形市内をぶらぶらしていたら素敵な瀬戸物屋さんを見つけ、入り、お店の素敵なご婦人と雑談し、その方の地元が父の仕事先の酒蔵ととても近かったり、お皿を買ったら割り引きまでしてもらったりで、そのお皿で朝ご飯を食べる今日。晴れ。洗濯物を干す。
何をもって幸せとするかは人によってまちまちだろうが、苦悩を感じていたり不満があったりお金がなかったり、嫌いな人や殺してやりたいほど憎んでいる人がいたとしても、それがある生活が幸せじゃないかというとそうでもないような、そんな気がしています。
これがこうであるということが正しい、というような自分の中の定義が、どんどん崩れていくのも面白い。それが全くなくなった先に、何が残るのかということも、楽しみです。
柔らかい大人になりたいなと、思った。