愛する役について。


どうも、須貝です。

日付変わって8月に入りましたね。一年ってあっという間ですな。そして約12時間後にマコンドー昼公演スタート。あと2回です。

この公演は、柿喰う客の『Wannabe』と同時進行で稽古を行っていた作品です。これほど同時に稽古を進めたことはなく、不安がなかったかと言われればまぁそれは嘘で。『Wannabe』も『トーキョービッチ~』もどちらも失敗する可能性があった。どちらかがうまくいっても、どちらかが失敗する可能性があった。そうなった時、誰を責めることも出来ない、なぜならそれを選んだのは僕だから。だからそれなりにプレッシャーはあった。

しかし稽古を進めていく内に、そんな心配は全然必要ないということが分かりました。作品作りにおいて信頼が出来れば、そんなことは簡単に飛び越えられる。もっと稽古していれば良かったとか時間が欲しかったとか、そんな風なことを、びっくりするほど思いません。今僕が、僕らが至ることが出来た答えが、間違いようもなく本当であると実感しているので。

自分が好きなことにおいて忙しい、時間がないということは、とても幸せです。この生活を知ったからには、やめられない、癖になりそうな、そんな気がします。

今までにやった役、ということを思い返した時、地味にキャリアが十年近くなってしまっている現在ですが、思い出される役って案外少ないんです。しかもわりと最近。

一人目は箱庭円舞曲第十四楽章『とりあえず寝る女』で演じた今野という男。二人目はカスガイ1st connect『リビング』で演じ、佐藤佐吉賞の最優秀主演男優賞をいただいた一(いつ)君という青年。そして三人目は恐らく、今回やっている役になるんじゃないかなと、思っています。

この三人に共通すること、というか、現代の人に共通していることなのかもしれませんが、それは、「持っていないわけではないのに、ひどく足りない」ということだと思っています。今野には仕事やそこそこ不自由のない生活があるけど、家や家族への憧れや欲求があり、一君には姉からの愛があったり姉への愛があったり、しかしそれをどう受け止め表現したらいいのかという方法がなく、今やっている役は…まぁまだ終わっていないのでお話出来ないんですが、それぞれどこかひどく足りない。

足りないからこそそれを求めるんだけど、それが次第にその人物を歪ませていく。無理が生じていく。それが、持っていないわけではないから他人からは理解されなかったり誤解されたり明らかに見えたりするんだけど、本人たちはひどく真面目にその問題に向き合っていく。その擦れ違いや圧迫の末にどこに向かうのか、という最終的な行動部分が、この人たちの魅力として舞台上に現れていく。

僕はあくまで彼らの行動部分を担う一人の人間として、舞台上に立っていたような気さえします。彼らは僕という人間の身体を借りて舞台上に生きた、いくつもある人生の内の一つの、一部の時間なんです。

僕は常に役を読み解く時、自分をスタート地点にするので、結果出来上がる役はひどく僕に寄っています。作品によりそれは良し悪しなような気もしますが、そのため多くの役は公演が終わると、僕の違った側面の一つとして僕に吸収されていくことが多い(同じ側面はそのまま僕の個性として残っていく)。しかし、例外的に、確固としたキャラクターは今も消えずに自分の中に、彼ら自身の場所を作って眠っているような気がします。

そういう彼らは、愛さずにはいられない存在です。一緒に苦労した連中ですからね。

愛する役と、愛する方々と共に、明日燃え尽きます。劇場にてお待ちしています。

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