もう少しで。

どうも、須貝です。

あと三日で箱庭円舞曲の初日の幕が開けます。この作品が世間の人々にどういった形で受け入れられていくのか、とても楽しみです。

一人の人間が書いている脚本である以上、その作品はその人の投影です。例えどのような題材を取り扱ったとしても、例え何人の他人が出てこようと、やはりその中にはその人の血が色濃く通っています。

今回のお話は、箱庭10周年記念作品。今回のお話の中には、古川さんの血の他に、箱庭円舞曲という劇団の血が流れています。色濃く。

その作品の中にどれだけの共通認識があるかということが、結局大事なんです。役への取り組み方には色々と手法があると思いますが、役と対話していくことで、自分と役との違いを知り、それを受け入れ、似た者同士になっていく。すると今度は不思議と似通った部分が見えてくる。逆のパターンも。似ていると思ったその役が別人に見えてくる。違った側面が見えてくる。

今回の作品と向き合う時、自分がこの劇団と向き合ってきた年月のことを思います。今回の稽古場で印象深いのが、今までの公演の思い出話をすることが多いということ。あんなことあったねこんなことあったね、これ前もなかった?俺またこんなん言ってるよ、など。

センチメンタルではない、と思いたい、そうなるように仕向けられている作品で、それが自己満足や自己完結であると思いたくはない、そこに同じ歴史を過ごした人々がいて、生きているということが、お客さんに伝わらないわけはないと、思います。

1ヶ月より、5年間の方が重いんです、やっぱり。

役の話に戻ります。日常生きていく中で、どんなに親しい人であろうと、これほどまでに一人の人間を受け入れなければならないということは、ないでしょう。他人であり自身である役との対話は、仏像の前で手を合わせるような、不思議な気持ちになるのです。

今日不図入った定食屋さんで、美の巨人たちが放映されていて、モンドリアンの言葉が聞こえてきました。「芸術は宗教である」って言葉。凄く、分かる気がする。

一体なぜ演ずるという行為が祈るという行為に結び付くのかよく分かりませんが、演じている役が自分ではないからなのかもしれません。

祈る時、自分のことをもちろん祈り、同時に自分に近しい他人の顔が浮かびます。家族や友人たち。彼らの幸せを祈ります。演ずる時、自分がどう観えるかを考えます。同時に、作品の中でこの人物がどう生きているのか、どこへ向かうのか、そんなことも考えます。僕はやはり、自分が演ずる役の人物には幸せになって欲しいと思っている。例えその作品の中で死ぬ役だろうと、そんなことは関係ない、俺が演ずるからにはお前は最終的には幸せになれと、祈っているのです。いいことか悪いことかは置いておいて、最も近しい他人で自分なその役を、自然と愛してしまうので。仕方ない。

祈ることも演ずることも、自分と他人との間を行ったり来たりする、とても曖昧な行為で、その曖昧さの中に、この世界が輝くヒントがあるような気が、するんですね。

分け与えるほどの幸せは、僕にはありません。自分で手一杯です。しかし他人の幸せを願うくらいの余裕は、常に持っていたい。

僕にとって演劇をするということは修行のようなものでした。自己鍛錬。今でもそれは変わりませんが、少しずつ意味合いが、変わってきているような気がする。僕は僕が思い描いていた自分に、少しずつ近付いていっている。

僕の幸せを祈ってくれる他人と、僕が幸せを祈る他人。僕と他人の協力で、結局僕も僕を取り巻く環境も、変わっていくようです。これが宗教だと言われれば、確かにキリスト教のこともその信者達のことも理解出来る気がする。

確かに僕は信じている。演劇が人に与える力の確かさを。人が人に与えることの出来る力の確かさを。盲信も狂信もしない、僕はただ、僕に出来ることを一つずつ、確かにやっていくだけです。そしてその力が届くことを、信じるだけです。

下北沢でお待ちしています。6日から11日まで。あなたには信ずるものがありますか?信ずる人は最強ですよ。例えそれを信じているのが自分だけであると気付いていなかったとしても、その人は最強です。あなたは最強ですか?最強になろうとしていますか?最強ではない自分に気付いていますか?最強なあなたに何が出来ますか?

僕は最強です。これまでも今この時もこれからもずっと。

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