どうも、須貝です。
最近ふと昔のことを思い出すことが多くなって、一つ一つの出来事を年代順に考えていくと、実は全然時間が経っていないことに気付きます。フランス行ったのも5年前だと思ってたら3年前だったし、箱庭が駅前劇場で初めて公演を行ったのも実は2010年だし、春風舎でゴニたちと一緒にやって鳥取行ったのも実は去年だし、マコンドー初めて出たのもまだ去年だし、大学出てからまだ4年だし(いや、これは「もう4年」って気もするな)、ってかモノフォニ旗揚げ2010年2月だし、つまりその時の僕はまだどらま館で働いてたし、色々、遠い昔のように思っていたことたちが実は意外と最近で、どんどんすごい勢いで色んなことを忘れて、色々なことを入れ替えていっているのだな人間は、と、当たり前のことを考えたりします。
人間の感覚の中で時間の感覚というものに僕は一番信用を置いていないのですが、これはこうやって物凄い勢いで記憶を昔に追いやって行っている自分がいるからだし、体感時間というやつは特殊な職業についている人ででもない限り正確に把握していないものじゃないでしょうか。それをとても怖く思うことがあって、そうやって時間を浪費していっているんじゃないかと、何も蓄積していないんじゃないかと、経験を失っていっているんじゃないかと、思うんです。
でも改めて、舞台に立ってみたり、旧友と話してみたり、昔書いたものを読んだり出演していたものを観たりすると、あぁそうでもない、今の自分はちゃんとこれを過ぎてきているのだと感じる。どうやら良い方に向かっていっているようだと、不安を拭うことが出来ます。辛うじて。
良くも悪くも一つ一つのことを順序だてて並べていこうと考えると途端に僕の頭は混乱するようで、それよりも思い付いたこと、考え付いたこと、強く感じたことや印象に残ったこと、といった順番で物事を考える方が性に合っている、ようです。
時間の感覚を大事にし優先している時の自分は一般の意識で動いており、それを離れた瞬間に、表現のために開放された状態になるようなそんな気がするので、これは一つのバロメーターとも言えます。誰にでもあることと思いますが、時間が短く感じられる時は調子の良い時、逆ならば悪い時といったように。勿体ないことですが、良い舞台ほど体感時間が短く、この時間が一生続けばいいのにと思いますが、その最高の時間はあまりにも早く過ぎ去ってしまいます。
良い稽古も同じで、何かが出来上がる、積み上がるまさにその瞬間は瞬く間に過ぎ去っていって、逆にじっと耐える、我慢する時の時間はじっとりといつまでも流れようとしません。しかしこれは後者が悪いということではなく、後者の積み重ねが前者に昇華したり、前者の飛躍で次の段階として後者が訪れたりというバイオリズムがあるもので、それすらも楽しめたら大抵のことを生きる糧としてやっていけるような、そんな気がします。
今、多分僕は人生において我慢の時期にいて、それがいつまでも長く永遠に続くような苦しみの中にいますが、これはこれで楽しい。悪くない。これが今後の自分にどう生きるか楽しみだし、これをどう糧にするかも楽しみだし、困難に向かう面白さは困難がないと得られないわけだし、幸せではないけれど満足という状態で、興味深い。
やりたいことが山ほどあります。
そうして間もなく箱庭円舞曲初日。闘ってみようと思います。ご予約はこちらから。ゆめゆめお見逃しなきよう。