ゆっくり、ゆっくり…
僕は金網の一つ一つに慎重に爪先をかけながら、ゆっくりと野口の元へと下りて行った。
距離にして1メートルもないのかもしれない。でも僕にとっては遥かな距離に思われる。雲悌だって嫌いなのに…どうして僕は三階建ての建物の屋上から垂れ下がっているフェンスにしがみついているんだろう?それもこれも全て、カエルのように情けなくフェンスにしがみつくバカ男のせいだ。
風が吹く。下から持ち上げるように吹く強い風に、フェンスが何の抵抗もせず(野口と僕の体重が加えられているのに)フワッと持ち上がる。
「うぎゃーーーーー!!」
「わぁ!ちょっと、動かないで!」
「動きたくて動いてるわけじゃない!風が吹いて浮いたんだ!おしっこが…」
「ちびってもいいけど動かないで!今、君の一挙手一投足には僕の命もかかってるんだ!」
このバカが…出来れば蹴落としてやりたい。
野口は恐怖と、単純に疲れからの痙攣で、手足をガタガタ震わせている。
「上田君、…どうして助けてくれるの?自慢じゃないけど僕、何度も君を裏切ったじゃないか…」
自慢じゃないけどって前置きおかしくない?
「別に君を助けたいからじゃないよ。ハッキリ言うけど別に君の事好きでもないし、どちらかというと嫌いの部類に入るし、いじめられっこ同士の親近感とか微塵も感じないし、むしろ僕がいじめられてさえいなかったら君の事クラスの皆と一緒になっていじめてたと思うし」
「えぇ…?」
「でもなんかちょっとムカつくから。だから助けたくもない君を助けようと思ってるんだ」
「ムカつくって…何に?僕に?」
「……。」
そうだ、一体何にムカついてるんだ、僕は?自分でもよく分からない。いや、分かってはいるんだけど、上手く言葉に出来ないというか…
「僕の事、好きなの!?」
「違うよ!バカじゃないの!?」
「じゃあなんで?」
「なんていうか…君に何も起こらないのは確かにおかしいと思ったから」
僕の日常にだって何も起こったりはしない。そんなのは分かってる、都合のいい話だっていうのは。でも、ムカつく。それすらも認めてしまったら、本当に救いがないんじゃないかって気になってしまう。そんなのは嫌だ。
「努力した奴が報われるっていうけど努力しなくたって報われてる奴だっているじゃないか。そんな美談みたいな話で世の中全部回るわけじゃないし」
「その通りだよね!」
「うん…でも野口君は明らかにもっと努力した方がいいと思うよ」
とにかく後は時間との勝負、僕の体力だってその内尽きてしまうだろう。
考え無しに降りてはみたものの、僕なんかが野口の体重を支えられるのだろうか?
ようやく手の届く距離にまで近づく事が出来た。野口の体はもう、限界なんかとっくに超えているのだろう。
「野口君、手を伸ばして!」
「…無理…」
「は!?無理って!四の五の言わずに伸ばせばいいんだよ!」
「…さっきから動かそうとは思ってるんだけど…動かない…固まっちゃった…」
危うく僕は野口を蹴飛ばすところだった。じゃあ僕が掴んで引っ張り上げるってことか?そんなの無理だ!
それとも二人仲良くはしご車の救助を待つか?それじゃあ僕が頑張った意味がないばかりか、かえって手間を増やして一緒に救助されちゃったみたいな感じじゃないか!そんなのいやだぁ!!
「あ、ほんとだ、真島さん、やっぱり野口っす」
「お、本当だ、野口だ。カエルみてーだな」
そ、その声は…真島に島崎!三階にいるんだね!?窓を開ければきっと手が届く、島崎、そっちの方が確実なんだ!僕は人一人持ち上げられるほどマッチョじゃないんだ!
「(ガラガラ)あ、なんか手伸ばせば助けられそうっすよ」
そうだ!助けてやってくれ~!こいつを、このバカを助けてやってくれ~!
「おい、上に誰かいるぞ」
「あ、ほんとだ。あれ上田じゃないすか?」
「あいつ、助けようとしてんじゃないか?」
「ま、真島君、そ、そうだよ、上田だよ!そうなんだけど…」
「そうなのか?じゃ、いっか」
「そうすね」
ちょっと待ってくれよ!
「待ってー!僕の腕力じゃ持ち上げられないんだ!」
「はぁ?じゃあなんでそんなとこ行ってんだよ。逆に邪魔だろ?なぁ真島さん」
「全くその通りだ。消防士さんに失礼だ」
そ、そう言われると…何も言い返せないけど…。
「その通りだよ!でもたまたま居合わせちゃったんだから助けるしかなかったんだ、いいから早くそのバカを助けてやってよ!」
「しょうがねーなぁ。ほらカエル、動くなよ」
「え?助けるんすか?めんどくせーなぁ…」
そうこう言いながらも二人はそれぞれ野口の両足を片方ずつ持って、無理矢理フェンスから引き離す。
「おら、野口、手ぇ離せよ」
「だって、手を離したら落ちちゃう…」
「俺らが足持ってるから大丈夫だよ。なぁ、真島さん」
「ノー・プログレッシブだ」
ノー・プログレッシブ?
「でも…」
「うるっさいな…セイッ!」
いつもなぜか息の合う二人である。二人は思いっきり力をこめると、野口を無理矢理フェンスから引き離した。フェンスが大きく揺れ動く。
引き離された野口はというと、大きな半円を宙に描くようにして、そのまま後頭部から校舎の壁に激突した。ゴッ、という鈍い音が響く。
「やべーよ、真島さん、こいつ、死んだかも」
「とりあえず泡吹いてるから生きてはいるんじゃないか?」
どんな判断基準だよ…でもとにかくよかった、これで少なくとも野口は無事だ。
その時である。鋭い金属音と共に、フェンスを固定していた右側の金具が外れ、僕の体はフェンスと共に左側に大きく揺れた。やばい…
「ま、真島君…」
やっと出た言葉も、震えて声にならない。
フェンスは元々二点でしか固定されてはいなかった。僕の体重とフェンス自体の重さが、一気に残されたボルトにのしかかる。
ガキッ。
一瞬、世界が止まって見えた。その、不快な金属音しか存在しない世界。それが今僕の周りに展開されている。
次の瞬間、僕はしがみついたフェンスと共に、空中に放り出された。
~つづく~