次の日の朝、母に叩き起こされて一階の居間に降りて行ったら、円ちゃんのお父さんが僕の父親となにやら楽しそうに話していた。そういえば今日は日曜日で、僕の父も円ちゃんのお父さんももちろん休みなわけで、これから一緒に出かけたりするのかな、なんて思いながらパジャマのままで挨拶すると、予想外に円ちゃんのお父さんは僕に用があって来たようだった。
「いや、実はね、円がね、昨日から家に帰ってないんだよね」
「は?」
「あいや、帰っては来たみたいなんだけど、すぐにどっか行っちゃったみたいなんだよね」
「昨日の夜にってことですか?」
「うん、たぶん」
「たぶん?」
「いや、寝てたから。僕も文江も」
文江というのはもちろん円ちゃんのお母さんのことだ。
「朝起きたらね、車がなくてさ、僕の。いやぁ、本当にこれが明日だったら大変だったよ、会社に行けない所だった、アハハ」
「そうですねぇ、そうしたら私が送っていくっていう手もありますけどね」
「いやぁ、渡辺さんにそこまでお世話になるわけにもいかないですから」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、車でどっかに出かけて、それで朝になっても戻って来てないってことですよね?」
「そうだよ」
「大変じゃないですか!」
「なにも大変なことじゃないよ、もう子供じゃないんだから。ただ一言の連絡もなくいなくなるのは珍しいな、って。五年前にいなくなった時だって書置きも連絡もあったでしょ?」
前にも言ったかもしれないが、この人は夫婦共々おっとりしている。時に腹が立つくらい。
「円ちゃんが行きそうな所には連絡したんですか?例えば僕らの高校の同級生とか」
「いや、それが心当たりなくってさぁ。円が泊まりに行く友達なんて、ちょっと思いつかないよ。円の友達、って言って一番最初に思いついたのが晋ちゃんなわけだし」
そういえば、咄嗟に言われると僕も思い当たらなかった。円ちゃんは心ちゃんがいた頃は心ちゃんと一番仲が良かったわけだし、心ちゃんがいなくなった後でも、誰とでも仲は良かったけど誰かと特別に仲が良かったかと言われると…そうだ、僭越ながら、やっぱり親友と呼べるような人は僕しかいないのだ。
「大学の友達でこっちに来てる人の所に行ってるとか…」
言ってから気づいたけど、そんな人そうそういないだろう。
「まぁとにかくそんなわけで、とりあえず一番最初に思いついた晋ちゃんの所にこんな朝早く来ちゃったわけ。ごめんね、せっかくの日曜なのに」
「いいんですよぉ、どうせ帰って来ても寝てるだけなんだから、この子は」
僕はすぐに昨日の夜、円ちゃんと一緒に散歩したことを思い出していた。急に走り去っていってしまった円ちゃん。もしかしてあれが原因か?僕があんなことなんか聞いたからか?僕が悪いのか?また何年もいなくなってしまうのか?また急に会えなくなってしまうのか?
「もし良かったらですけど…」
「なーに?」
「僕、探しに行きます。円ちゃんのこと。だっておじさんは車もないし、身動き取れないでしょ?」
「ほんと?助かるよ」
「だからおじさんは家で円ちゃんからの連絡を待ってて下さい。それから、僕の卒業アルバム、中学のと高校のどっちも貸すんで、円ちゃんと同じクラスの女の子に電話、かけてください。いいですか?」
「そんな、大袈裟だよ~。ただいなくなっただけなんだから」
「そうやってただいなくなって五年間も帰って来なかったんですよ?おじさんもおばさんも電話で話したり、もしかしたら会いに行ったりしてたかも知れないですけど、僕は…」
僕は、なんだ?僕は、僕だけ、僕だって、ずっと会えなくて寂しかったんですよ、ってか?そんなこと、今言うことでもないし、言う相手だって間違ってる。
その時、ちょっと思ったことがある。円ちゃんがいなくなっていた五年間は、円ちゃんのお父さんやお母さんにとって、いい休息の時間だったんじゃないだろうか。円ちゃんがいればきっと遣わなければならなかった気を遣う必要もなくて、寂しかっただろうけど、ゆっくり傷を癒すことも出来て…何より、そうだ、何より(円ちゃんの考えそうなことだ)、二人が、毎朝円ちゃんの顔を見て、心ちゃんがいなくなってしまったんだってことを、思い出さなくても済むってことだ。
「僕は、探しに行きますね。だからおじさんも。大丈夫なんてことはないんですから、人は、大丈夫なんてことは。どうなるかなんて、本当にどうなるか分からないんですから、人がいつどうなるかなんてことは。いいですよね?」
息苦しい。今僕は、ただ単純に、円ちゃんのことを心配しているらしい。僕の父と母は僕の剣幕にきょとんとしている。円ちゃんのお父さんはしばらく呆けたような顔をして、それからゆっくり微笑んで、
「分かった、そうするよ。晋ちゃん、ありがとね。本当にありがとうね」
とだけ僕に言った。
急いで着替えて出かける支度をして車に乗り込む。一度円ちゃんの家に寄って行こうと思って車を走らせると、丁度玄関から誰かが出てくるところだった。「円ちゃん!」。一瞬そう思って心が舞い上がったけど、もちろんそうではなくて、冷静に考えてもう一度よく見てみれば、それはインさんだった。
「おじさんとおばさんって今何してます?」
「でんわかけてます。ふたりでたくさん」
「そっか。じゃあいいか」
「どうしたんですか?」
「いや、一言声をかけてから行こうかと思ってたんだけど」
「まどかさがしにもういきますか?」
「うん、いくつか心当たりに回ってみるつもり」
しばらく沈黙してなにやら考え込んでいるインさん。
「どうしたの?」
「あの…わたしもつれっててください」
「連れてって、って言いたい?」
「あ、はい、つれててください。てつだい」
「いやでも、二人いたからどうなるってわけでもないし…」
「じゃましません、ただまどかしんぱいです。わたし、こっちのほんしゃのばしょもしってます。まどかそこにいるかもしれない」
確かにその可能性はある。有り得ないとは思うが、深夜に急な仕事を思い出して会社に行き、そのまま眠ってしまったってことも…ないか。
いや、そんなことよりも大事なことがあって、インさんの「しんぱい」という気持ちを無視してしまうのは、僕の自分勝手だ。僕に彼女を心配する権利があるなら、