それでも言葉にしたい。

どーも、須貝ですバイ。

ちょっと博多っ子を気取ってみましたが、気付きましたか?さて、それはどこでしょう?…正解は「どーも」の発音の仕方でした!

…さて、下らぬ前置きは置いておいて、最近ハマッていることの中に「文章を書く」ということがあります。ブログに関してもそうなんですが、それ以外にもとにかく溢れ出るままに書いています。

ブログを書き始めた頃にも書いていたと思うんですが、何かを書こうと思って日々を生きるとどうもただ日々を生きるのとは少しずつ何かが違ってくるらしく、そういう意味で人には日記やブログを勧めているわけなんですが、恩恵は充分に受けているのではないでしょうか。

例えば何かが起こる瞬間や変化する瞬間を、あくまで以前に比べればという自分内の低い基準の話ですが、見つけることが多くなった気がします。例えばそれが物語の中に情景として生きたり、物語の着想そのものになったりします。

最近文章を書いている時に自分が理想としていることは何なんだろうと思うと、「いかに無駄無く書くか」ということなのかなと思います。一文一文、一文字一文字があるべくしてそこにあるというのが理想かなと。どこを切っても血が出るような、何を取っても旋律があるような。無駄ももちろん大好きなんですが、あるべくしてある無駄でなければならないというか。

いかに短く的確な表現で伝えるか、いかにお洒落に書くか、そう、お洒落というのがね、恥ずかしながら理想です。お洒落な文章を書きたい。粋な。僕からは程遠い言葉ですが。

一つのことを表現するのに一つの表現しか浮かんでこないというのは悔しいなと思う時があります。変に技巧的になったりするのもそれはそれで陳腐なんですが、「悲しい」ということを「悲しい」と言えないからこそそこに何か葛藤のようなものが生まれるんだと思うこともあります。

本当は言葉に出来ない感情の方がたくさんあったり感情の質量としては大きかったりするんだということも書いていて思います。ありきたりですが。そういうものは言葉にした瞬間にその感動の大部分が失われてしまったり、下手すれば全く損なわれてしまったり。言葉で分類される感情というのはほんの一部だと思う時が誰でもあると思うのですが、それでもそれをいかに言葉で表現しよう、いかに言葉というツールで伝えようという思いがあります。

「言葉に出来ないものをいかに言葉で表現するか」、難しい。しかしそこから逃げることは出来ない。向き合って越えなければ先に進めない。自分の中の心の襞のようなものが重厚に重なり合っていくようになったら、と思います。理想ですね。

書いていることで自分が救われているという話は前にもしましたが、世界で何かが起きようとしている、価値のある何かがどこかで起こっている、語るべき物語が存在している、見つけるべき情景が存在している、と思うだけで、充分世界は美しいものになると感じる時があります。それだけで妙に感傷的になったり。気持ち悪いですね。

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