自分が作品を書くときに密かにルールがあるんです。あまり厳密に守っているわけじゃないんですが…
それは「作品の中で人を殺さない」、細かく言えば「主要なキャラクターを病気などの理由で作品の中で殺さない」です。
「殺す」っていうのはもちろん脚本家が登場人物を死なせることを指してるわけで、別に殺人事件はNGという意味ではないです。これは単に好き嫌いの問題ですね。
簡単だと思ってしまうんです。例えば「恋に落ちた二人のどちらか一方が不治の病で、最後には死んじゃう」とか。よくありますよね。いや、確かにそれでお客さんを感動させるのには技量が必要なんですが、作品のプロットがそれのみだったりすると、やはり乏しい感じがしてしまいます。あくまで個人的に、です。
例外的な作品はもちろんたくさんあって、前述の「ライム・ライト」なんかは最後に老いたカルヴェロは死んでしまうわけだし、僕が大好きなウェス・アンダーソンの「ロイヤル・テネンバウムズ」なんかも最後にロイヤルは亡くなるわけですが、作品の面白さが彼らの死の悲劇性にのみあるわけではないので、また違う気もします。
シチュエーションさえ変えれば、この手の話は好き放題作れます。「あぁ、この二人はこんなに惹かれあっているのに、この人は結局は死んじゃうんだ…」という手法ですね。悪いとは言いませんけど、自分だったらたぶん一生やらないことでしょう。
その状況が存在すること自体は全然許せるんですが、どう考えてもそれに逃げてたり、頼ってたりするのを観るとむかっ腹が立ちます。
あれ…?でもそう言っていくとそういう作品で面白いものもたくさんあるな…結局去ることが分かっている人に恋をする、とかね。「マディソン郡の橋」もそういう話ですよね?
とにかく登場人物を死なせるのは好きじゃありません。あくまで好みですから聞き流してください。一回だけ死なせたことありますけど。
その代わり、「登場人物が誰かの死の悲しみに耐えている」とか、「以前辛いことがあってそれに耐えている」とかいう話はよく書きます。要は、登場人物が、「俺大変なんだぜぇ!不幸なんだぜ!」と作品の流れの中で主張しすぎる話があんまり好きじゃないんですかね。「死」を道具として、キャラ付けの一部として使うことに抵抗があるんです。なんか微妙な問題になってきましたけど。
主張しすぎるのって野暮だなぁと思ったりします。オシャレじゃない。僕が多くを教わった演出家が「野暮」という言葉をよく使うんですが、作品において「何を隠すか」ということをよく考えます。戯曲であれば「どこまで語らせるか、見せるか」ということを考えます。よい作品は、やはり隠し方が上手です。悲しむ二人を見せれば、そりゃあ観客は感情移入しますから、やりやすいんでしょうけど、どうしても野暮ったく思ってしまう。
一番難しい演技は背中の演技だとよく言われます。僕もそう思います。
日本の映画で最近多いのは「泣いてるシーン」、ホラー映画なんかでは「叫んでるシーン」、あとは「演者のアップ」ですね。特に「アップ」はドラマでも映画でも多用されてます。カットを作るというよりも、役者のピンナップを見ているような気分になります。野暮ですね。役者は全身で演技しているのに、それを撮らないのは愚の骨頂ですよ。役者のパーソナリティーが顔のみになっているのかなとか思ったりします。逆に言えば全身で演技する人が減ったのでしょうか。
ある人が中村勘三郎氏の「足の演技」について述べた中に、「彼が女形をすれば、着物からちらと見える足はまさに美しく若々しい。無骨な男を演ずる時は筋肉質で荒々しい足が着物からはみ出している」という一節がありました。
クリント・イーストウッドが、涙にくれて恋人と抱き合うというシーンで、すぐに背中をカメラに向けてしまったことに対して質問された時、「見せるのは簡単だ」と答えたそうです。
まさにこの二人は大俳優と言えると思います。
そう、見せちゃうのは意外と簡単なんですよね…今戯曲を書いてるんですけど、いかにセリフに頼らないかを目標にしてます。僕が書くのはセリフがほんと多いんですよ。
人間は想像する生き物だから、実際見せちゃうより想像させたほうがいい時もあります。そこまで計算して作品を作れれば…と思うんですが。それは役者やる上でも今の目標ですね。
なんか長々と、結局涙もろい話とは全く違うこと言ってました。久しぶりだから、まぁいっか(自分には甘い)。