生理を追う。

どうも、須貝です。

皆さんが仕事をしている時、やりたくないがどうしてもやらなければならないということに幾度も直面することと思います。
役者の場合に置き換えてもそれはよくあることで、このシーンはどうしても納得いかないがそれでも脚本に書かれているからやらねばならない、ということに四苦八苦するわけで。

例えばその時その感情になったり、その行動を選んだりする理由が分からない、納得できない、好きになれない、描かれ方が少な過ぎてその気持ちになれない、展開が飲み込めない、などなど理由は様々ですが、これは作品の良し悪しに関わらず多かれ少なかれ生じてくるものらしいです。そして生理的に出来ないことというのはなかなか気持ちが乗りません。体や心の素直な反応を無視しているわけですからね。
大体は脚本を読みこんで役や作品を理解していけば、稽古を重ねていけば解消されていくものですが、どうしようもない部分が最後まで残る時もあります。

しーかし、この役者の生理というやつを一番に優先して物事を進めると、どうしても話が長くなる。冗長になる。結果、物語の勘所が良く分からなくなる。脇役が登場してきてギャグを言うシーンに理由も何もありませんからね。
また、その役者の生理を優先することで、他の誰かの生理を阻害することがある。迷惑を掛ける。

向かい所として、生理的に納得出来る形になるように作品に向かっていくべきだと思っていますし、役者がノリノリでやってる方が観てる方も圧倒的にいいだろうと思っているので、これは大事なこと、疎かにしたり無理したりすべき所ではないので生理は優先すべきだと思うのですが、そのために作品の本質を曲げたり意味合いを変えたり自分の好きなように解釈してしまったり、というのは、僕はあまり好きじゃありません。好きじゃないというかやるべきじゃないと思っています。

作品という枠組みがなければ役柄は、つまり役者である僕らは存在出来ないものだという考えが基本的にはあるので、作品をないがしろにする役者が僕は嫌いです。そうなりたくないなといつも思っています。

また、生理に合わないからと言って出来ないと投げ出したり文句を言ったりするのも嫌いです。プロならやれと言われたことくらい軽々とやってみろと心の中では思っています。

僕が役者をやっていて何にストレスを感じるかと言うと、どんな理由にしろ、稽古場において稽古が止まってしまうことです。出来ない、分からない、なんてことは分かっているわけです。それをまだ2、3回しかトライしていない段階から出来ない、分からないなどと言うのは少々我儘が過ぎます。個人的には100回やって分からなければ分からないと言っていいと思っていますが、それ以前は決して言うな、と思うのです。

昔の、劇団というスタイルが主流だった時代は、作家なり演出家なり主宰なりに対し盲信的になるという弊害はあったにしろ、少なくともこういう種類の甘えはなかった。昔がいい、今が悪いとは言いませんが。
演出家の方も、トライの機会を与える人が少なくなったような気がする。「大丈夫、俺を信じてとりあえずやってごらん」、とか、「うるせー、とにかくやりゃいいだろうが」、とか言う人が少なくなったような気がします。これは僕の個人的な意見ですので、違うと言われたらそうかもしれませんとしか言い返せませんが。

言葉、というものは不思議なもので、何度も口に出して話している内に自然とその意味合いが飲み込まれてくる。その気持ちになる。言葉がその人を作っていく感覚が芽生えてきます。この、何度も繰り返した先に立ち上がって来るものの存在を感じる瞬間が、とても楽しい。そう、楽しいんだから、やってみたら?思うんです。

曲がりなりにも誰かが作り上げた一つの世界を、そんな真っ向から否定してかかったら、せっかくのセッションが楽しくならなくなるんじゃなかろうか。そういう意味では僕は役者よりも作家の味方です。

…などといったことを今まで考えていたわけですが、それが最近揺らいでいます。

得をするのは、自分の生理をひたすらに追求した奴なんじゃなかろうか。誰に迷惑を掛けようが、いくら稽古場を止めようが、納得出来るようにやった奴なんじゃなかろうか。

この間、なんとなく僕は「損をした」ような気がしました。何を言ってんだ、あんだけいい役もらっといて、お前以外の皆が何かしら損しとるじゃないかと言われるだろうし僕自身も思いますが、なんというか、もっとやりたことをやれば良かったのに、と、思ったんですね(充分やった気もしますけど)。

迷惑を掛けないように、飛び出さないように、嫌われないように、といい子ちゃんぶることで、結果的に作品の質を落としたんじゃなかろうか、僕が足を引っ張ったんじゃなかろうか、なぜ座組みや作品を、自分をもっと信じなかったのだろうか、と、つくづく思っています。後悔ですね。

僕がしないようにしていること、したくないと思っていることを例えやっていても結果的に褒められるのだとしたら、なんか僕が必死になって守ろうとしているものが、凄くバカみたいに思えてくる。僕が大事にしていることが、下らないことのような気がしてくる。自分のルールに縛られているような気がする。

でも、やっぱりやりたくない。出来ない分からないを乱発したくない。例え嘘っぱちでも出来ますよと言って皆を安心させときたい。

ジレンマですね。

その上で最近はまた別のことを考えています。

三谷幸喜さんの『バッドニューズ・グッドタイミング』という舞台作品を観た時、作品自体も面白かったんですけど、何より興味深かったのはメイキング映像、稽古風景でした。

その映像が稽古のいつ頃の段階だったのか分かりませんが、恐らく一番苦しい時期の映像だったんじゃなかろうか。役者の全員が絶対にストレスや不満を感じている、悩みを感じている、そして三谷さんもそれを絶対に分かっている。なのに、稽古は淡々と進んでいるんです。誰も止めない。確認が必要な所で時間は取られますが、それ以外は粛々と進む。まぁ編集されてるからかもしれないけど。そんな大幅に止まる所を映すわけないですから。でも雰囲気的にね、そう感じたんです。

凄い役者は、全部飲み込んで、かつ好き勝手にやる。

最高潮に自由になるためには、まず最大限に拘束されなければならない。

それに尽きる。

だーから、僕は、とりあえず出来ることの範囲をどんどん広げていって、かつ好き勝手我儘放題な王様であり続けようと、思いました。最終的には馬鹿みたいに他人を信じて馬鹿みたいに自分を信じていくしかないのかもしれないなー。

だからもう一回、チャレンジしたいですね。機会があれば。

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