柔らかいベッドの感触。
目を開けて周りを見てみると保健室の白い天井が見える。
僕はなんでここにいるんだっけ?
「あら、気が付いた?」
僕の顔を上から覗き込んでいるのは、保健室の美人女医、舞珍具町子先生(沖縄出身)だ。かなり久々の登場であるが、相変らず美しい。
「大丈夫?どこも痛くない?」
「ちょっと腕っていうか、肩が痛いです」
「そりゃそうよね、だってあんなことがあったんだもん」
あんなこと?とりあえず夢じゃなかったみたいだ。
「あの…野口と田所さんは?」
「あぁ、二人は病院に運ばれたわよ。あなたは気を失っていただけで大丈夫そうだったからこっちに来てもらったの。ちょっと腕見せて」
「二人は無事なんですか?」
「そうね、野口君は気を失って脱臼してる以外は大丈夫よ。田所さんも頭蓋が割れてるくらいだから、大したことはないんじゃないかしら?」
野口はともかく田所さんは大変なんじゃないですか!?
「そ、そうですか…」
「うん、骨折も脱臼もしてないみたいね」
「あの、先生?」
「なーに?私に気があるの?」
いや、気がなくはないですけど…意外と自意識過剰ですね…。
「僕を助けてくれたのは、野口なんですか?」
「え?」
「ほら、野口が脱臼したって、落ちる僕のことを掴んでくれたからじゃないんですか?」
「まさか。野口君は今だって意識が戻ってないんだから」
「じゃあ真島とか島崎が助けてくれたんですか?」
「ううん、あの二人は野口君を掴んでたって言うじゃない」
「…じゃあ誰が僕を助けてくれたんですか?」
町子先生は何やら当惑した顔である。僕が何かおかしなことを言ったとでもいうのだろうか?
「あのさ、上田君、何も覚えてないの?」
「そうですね、何も覚えてないですけど…」
正確に言えば、フェンスを掴んだまま屋上から落ちてしまったところまでは覚えている。
「あなた、自分で野口君の腕を掴んだの。それを真島君と島崎君が一緒に引き上げてくれたの。思い出した?」
なんだって…?
「僕が、自分で野口の腕を掴んだって言うんですか?自分で?」
「そうよ」
「そんなバカな」
「だって真島君も島崎君もそう言ってたわよ」
「でも僕、フェンスを掴んでたんです、だからそのまま落ちて…」
「そのフェンスを放り投げて野口君の腕を掴んだんですって。あの二人が驚いてたわよ」
僕はしばらく呆然としていた。何より自分の行動に驚いたし、それを全く覚えていないことも、現にこうやって助かっていることも驚きだった。
でもしばらくすると…妙に納得したような、なんだ、そうだったのか、といった気持ちが少しずつ僕の心の端っこの方から湧き上がり始めて、やがて僕の胸の辺りをいっぱいに満たした。それは、少しだけ幸福な気持ちだった。
「先生」
「なに?今日うち来る?」
行く行く!…って違いますよ!
「僕、火星人に見えますか?」
「…は?」
「火星人っぽく見えますか?」
「…急に何言ってるの?」
さすがに町子先生も驚いている。そりゃそうだ。
「じゃあ僕、やっぱり地球人に見えますか?」
「…そうね…ぱっと見、そうとしか見えないけど…」
「そうですか。よかった」
「…なに、どうしたの?」
「いえ、別に。ただ、野口じゃないけど、ほんとに、火星人じゃなくてよかったって。地球人でもいいことなんかないけど」
「…?」
しょせん憧れるだけの火星、意地を張って地球にしがみついている僕らは、彼らみたいに何でも割切って考えられない。
別にいいや、そう思った。おかげで生きている。
保健室には強い西日が差し込む。終業のチャイムが鳴ると、廊下には騒がしさが戻って来た。いやいや、ちょっと待てよ?火星人に対して野口が抱くイメージは偏見でしかないから、そればかり信じていたら、彼らは怒りだすかもしれないぞ?
そうだな、会って確かめてみるしかなさそうだ。どうしよう、マンガみたいにタコっぽかったら?すごくいい人達だったらどうしよう?謝ったら許してくれるかな?そんなバカなことばかり考えていたら、いつの間にか辺りはうっすら暗くなっていた。
******
結局、野口は僕らの前に戻って来る事はなかった。退院した後すぐに別の学校に転校したのだそうだ。僕もクラスの皆も速攻で野口のことを忘れた。僕にも、今までと同じ冴えない毎日が戻って来た。
野口のことを思い出したのは、つい先日のクラス会で久しぶりに真島に会った時に、野口を見たと聞いたからだ。
真島は今なお宇宙飛行士を目指しているらしく、自分で勉強しながら、夢の島宇宙飛行士養成セミナーという明らかに非公認のぼったくりくさい怪しいセミナーに週一で通っているらしいのだが、そこに野口もいたのだそうだ。真島が声をかけると、次の週から来なくなってしまったらしい。
どうやら彼も僕と同じように、火星人に会いたいと今でも思っているらしい。手段は違うが、野口は宇宙飛行士になって、そして僕はしがないSF小説を書くことによって、彼らに近づこうとしている。
僕は自分の作品の中で、火星での生活を楽しんでいる。僕の小説の中の火星人たちは皆、優れた知性を持ち、感情に流されず、自らの死を厭わない。いつも地球人をバカにしているが、時々羨ましがったりしている。そんな憎めない人たちである。
さて、僕と野口と、一体どちらが火星により近づいているのだろう?いつか僕の文章が本物の火星人の目に触れ、訂正か抗議か、もしかしたら賞賛のために現れるのが早いか、それとも野口が火星に到達するのが早いか。
君が僕を競争相手と認識しているか分からないが、君も僕の文章を読んでいるものと仮定して、一体どちらが早いか、競争するとしようじゃないか。
~おわり~