どうも、須貝です。
この間、盟友の玉置玲央君の『飛龍伝』を観てきた。今やっと、その時にどういうことを考えたかを書きます。一つ言えるのは、これは劇評じゃない。そういうのは他の人に任す。そしてそもそも見方が偏っている。なぜなら友達と、自分について書いた文章だからだ。その辺はご理解頂きたい。
正直に話したい気持ちなので、正直に書かせて頂く。体裁も、今回に限っては特に気にしないことにする。だからあんまり読みたくないなと思ったら、今回は読まない方がいいかもしれない。
まず、この作品を観に行くのが、俺は非常に怖かった。この作品を目の当たりにしたら、俺は演劇をやめてしまうんじゃないだろうかと思っていたからだ。
ここ二年ほどの自分に対しては、常に最上を目指し、最良を心がけ、最大限の努力を傾けてきたという自負がある。それでもそれが結果に結び付かないことが多かった。少なくとも俺が満足する形での結果には結び付かなかった。それが歯痒くて仕方がなかった。このままどんなに努力をしても、限界ばかりが目の前に広がって、絶望を繰り返すだけなんじゃないだろうかと、苦しくて仕方がなかった。
そんな中、玉置玲央という人は、俺を置いてどんどん先へと進んでいった。彼は常に俺の前を走り続けていく人だ。信頼すべき人で、目標で、ライバルで、羨望や妬みの対象だった。
自分と同い年で、本多劇場という格式ある劇場で、座長公演を打つという。これはもう、どう贔屓目に見ても今の俺には不可能だ。俺にそんな力はない。今後その機会が訪れるかも、分からない。
正直、これ以上離されたらもう付いて行けないと思った。彼との差が取り返しが付かないほど広がれば、もう彼と一緒に何かをやっていくことが不可能になると思っていた。これは今も思っている。それは当然のことだ。お互い一線でやっていくのであれば、遅れた者を待っている暇はない。
恐ろしいのは、もうそれに耐えられるだけの心の力が、自分にはないかもしれないということだった。心が、折れるかもしれないと思った。何度も何度も、毎日毎日演劇をやめようと思ってきたけど、それでも結局続けてきたけど、もう今度こそ、ダメかもしれないと思った。
だから俺は、これを観て素直に感じたことに自分を沿わせなければならないと考えた。いい区切りだ、もう若くはない。才能は後から後から押し上げてくる。俺がここに留まる理由をなくしたら、去るべきだと思って劇場に行った。そんな覚悟を持って芝居を観に行くなんて初めてのことだった。長年続けてきたおかげで、自分の何かを託せる後進がたくさん出来た。現にそんな後進である大石憲という男も『飛龍伝』に出演していた。それならそれでいいじゃないか。これでやっと荷を降ろせる。大して重かぁないが、俺には重荷だったのだと、そう思って楽になれるかもしれない。そう思っていた。
そうやって、観て、素晴らしかった。生まれて初めて、立ち上がって拍手をした。映画でも音楽でも演劇でも、初めての経験だった。
何をやっているんだ俺は、と思った。何を忘れていたんだ、と思った。俺が何をしたいのか、思い出した気がした。懐かしい自分が戻ってきた気がした。
俺は、舞台に立ちたいし、立たなければいけないし、それ以外を求めていない。
全身を演劇にしたい。
今まで一緒にやって、去って行った人たちや、疎遠になった人たちや、親しい人たちや、舞台に立つ仲間や、それ以外の俺を支える全ての人のことを考えた。舞台に立ちたいと思った。体の芯に、血が流れていると思った。それ以外どう言い表していいか分からない液体が流れていると思った。
10年演劇を続けて来て、それ以外がないからこれをやっているとか、ここまでやってきてもったいないからやめないとか、そんなことはどうだっていい。クソの役にも立たない。何年やっていたってそんなの関係ない。
俺が、そこにいたいから、そこにいるんだ。なぜそれ以外の理由を求めようとしていたのか、目が曇っていたのか、慢心があったのか、油断があったのか、揺らいでいた。
たくさんの人に迷惑を掛けて、心配を掛けて、無駄をさせて、恨まれて、蔑まれて、見くびられて、それでも汚く、泥の中を這いずり回りながら、それでもやりたいと思っている。この道を歩きたいから。
そんなことを強く強く強く感じた。
彼はそうやって誰かを突き放すようなモノの作り方をしないのだと思って、彼は変わっていないのだと思って、変わっていたのは俺だったのだと思って、凄く恥ずかしくなった。実際は彼も変わっているのだろうけど、大事なことを守ってきたのだと、凄く安心した。彼が頑張っている限り俺も頑張る。俺が頑張っている限り、彼を絶対に辞めさせない。勝手にそう思った。別に勝手でいいじゃねぇかと思った。
今俺がやっていることは、いつどういう形で生きていくのか分からない。結局何にもならないかもしれない。劇団の活動も個人の活動も、古典をやったり落語をやったり、小説を書いたり戯曲を書いたり、何にもならないかもしれない。
でももしそこに衝動があって、それを実現する気力があって、それを体現する体があって、そしてほんの少し、希望を抱く勇気があるのであれば、やらない理由がない。いつも同じことを思い悩んで、その度に壁にぶつかって来たけど、目の前が拓けたように感じた。
終演後に彼に会ったら、涙が出てきて、本当はありがとうと言いたかった。
ゴドーの稽古中に鈴木ハルニさんが、「今の子らは評価されることに慣れ過ぎている」というようなことを言っていて、そうかもしれないと思った。
僕の好きな写真家の植田正治さんは、生涯“アマチュア”であることを大事にし続けた。
僕はこの10年、演劇でプロになることばかり考えてきた。それは絶対に必要なんだけど、自分の感覚を信じるというか、自分のあるべき方へ向かうというか、そういう、何物にも染まらない、アマチュアの精神であることが、凄く大事だなと今は思っている。
次の10年は、飯を食いながらアマチュアであることを実現するために使おうと思う。
昔はもっと上手に生きていた。傷つかないように嫌われないようにうまく立ち回っていた。損をしないようにやってきた。今はもうそれを出来る自信がない。
その代わり今は、あらゆることにありがとうと思う。そっちの方が俺は、生き方としては正しいと感じる。
有り難い。生命を授かったことに、感謝します。多謝。
乱文失礼。
自分が生きていく為に、進んでいく為に、今の自分自身の為に、
覚悟を持って観に行くという感覚、私にもあります。
これを観て感じる感情が今の自分に必要だって思うこと、あります。
そこまで自分を晒して向き合うことは、すべてを委ねていると同時に、
すべてを捨てることになる可能性も孕んでいて、やはり勇気のいることです。
仕事をしていてよく思います。
昔よりも出来ることが増えたのに、今の方が限界を感じる、と。
そういうジレンマとの闘いはずっと続くのかなと思います。
ある役者さんが言っていました。
「長くやっているともう好きかどうかさえも分からなくなってくる。
芝居に裏切られることもたくさんある。
それでもまだ芝居をやりたいと思っているから、
きっと好きなんでしょう」って。
英ちゃんが舞台に立ちたいと思ってくれたことに、
表現したい衝動に駆られてくれていることに、
そういう須貝英という人を守ってくれたこの舞台に、
私も感謝したいと思います。
ありがとうございます。
これは僕が役者をやっているからだけじゃなく、観客として観に行く時に、自分がこれを観終わった後どう変わっているか、ということを、演劇の場合はより多く期して観劇しているような気がします。そう思えることや、実際に変化出来るエンターテインメントこそ、上質だと思います。
その俳優さんのおっしゃっていることも、環さんのおっしゃることも、凄くよく分かります。きっとずっと終わらないことなのでしょうね。
でも、上質なエンターテインメントを作っていこうと思えた時に、限界が砕かれたように感じて、とても気が楽になりました。
色んな人に感謝しつつ、僕は続けていきたいと思います。今後とも何卒よろしくお願い致します。