向かう場所はある。

どうも、須貝です。

いつものごとく更新途絶えがちですみません。最近はちょっと、物理的に時間がなくて書けてません。いよいよiPad買おうかな…。空いた時間を有効に使いたい。

とは言え、ぼーっとしている時間とか本屋をぶらついている時間とか、散歩している時間とか何もせずにノートに向かい合っているだけの時間とか、凄く大事にしています。そういう時に着想は降りてくる。気がします。

さて、只今箱庭円舞曲の稽古中です。こちらのブログでもご挨拶させて頂きましたが、最後の箱庭円舞曲です。

とは言え今の所普段、あまり意識してません。普段通りに稽古に向き合っています。怖いくらいです。時々ふと、「あぁ、これで最後なのか」と思うことはありますが、まだ感傷に浸る余裕もなく、目の前の作品で精一杯なので、湧き上がったとしても一瞬の思いです。
でも最近昔のことを思い出すことが多くなりましたね。それはある。懐かしいなと思うことがたまにあります。

公に発表してからよく頂く質問で、「今後monophonic orchestraに本腰を入れたいから辞めるのですか?」ということを聞かれます。お答えすると、それももちろんありますが、そのためかと言われるとちょっと違います。
どちらかと言えば、役者として活動していく上で、劇団への所属をなくしてみたいと思ったことの方が大きいのかもしれません。僕は箱庭円舞曲に入る前はフリーの役者でいたんですけど、それに戻ってみたいと思ったことが、大きな理由としてあるのかもしれません。

今、凄く、怖いです。箱庭円舞曲にいるということに大きく依存してきましたし、六年間を過ごした場所なので、そこを離れるということ、不安がいっぱいです。
でも、離れなければいけないと思った直感ですとか境遇ですとか、そういったことどもをないがしろにするわけにもいかぬと思ったので、やはりこの決断は尊重したいと思っています。

これから観て頂く上で、もし僕やこれまでの箱庭円舞曲を知っている方であれば、意識しないで下さいというのも無理な話ではあると思いますが、どうか気持ちをちょっとだけまっさらにして、箱庭円舞曲のスズナリ初進出作品をお楽しみ頂ければと思っています。

僕なりにこの七年間、箱庭円舞曲に関わり続けて思うこと、箱庭円舞曲の作品の根っこには「向かう」ということが大きく絡まっている、ような気がします。
特に意識せず作品について話していると、自然とこの「向かう」という言葉が多く発せられていることに気付きます。

「どこにも向かえない」作品があって、
「どこにも向かわない」作品があって、
「どこに向かえばいいか分からない」作品があって、
「どこかに向かってみた」作品があって。

色々に思えども、どこかに必ず、向かうという方向性が強く働いている。ような気がしています、勝手に。

今回のラストシーンを読んだ時に最初に思ったのはこの「向かう」ということで、また新たな何かを見たような気がしました。
まだ全然読み込めていない、シーンも作りきれてはいないので何とも言えませんし意見は変わるだろうと思いますが、今回の作品は、

「向かう場所はある」

という作品、のような気がしました。なんとなくね。

「どこに」という言葉がある時は、多分向かう場所について何か期待だとか失望だとか、理想だとか現実だとか虚栄心だとか劣等感だとか、そういったものが伴っている気がするんですね。でも、「向かう場所はある」とだけ知ることは、常に何にも脅かされない、大きな希望のような気がするんです。どんな場所かは考えていない。ただ私たちには向かうべき場所があって、多分私たちはそこへ向かっているんだろう、みたいな、そんな感じ。愚直で単純で、でも強く折れぬ考え方なのかもしれない。

ま、まだ分かんないですけどね。あくまで僕が今ある状況からこの作品に触れて、それを感じたというだけで。皆さんにどう感じて頂けるのか楽しみです。

さぁ、あと二週間。お祭りじゃー!!

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