最期に一言~and now.~(8)

「…やぁ」
「…うん」

 返事も紛れもなく彼女のものである。「どうしたの?なんでここに?」、なんて見え透いた点数稼ぎの驚いた振りは絶対にしない女だ。

「うん」

 僕もただそう答えて彼女の隣に座った。僕が思いつく程度の説教や注意の言葉など、所詮通用しない女だからである。

「今ね、仁志のこと考えてたんよ」
「仁志?」
「うん、仁志。“セカンドの魔術師”こと仁志敏久」
「そんなあだ名あったっけ?」
「うん、敵選手にとっては“セカンドの黒魔術師”になる、あの仁志」
「へぇ、黒くなるんだ」
「恐怖の対象になるわけ」
「ふむふむ」
「それでね、彼を手放すってことはね、いよいよ巨人軍は優勝する気を無くしたんだなと思ったわけでさ」
「おぉ」
「今現在、巨人軍は永久に滅な状態なんだよ」
「お…いや、別にうまくないな」
「まずね、仁志目当ての巨人ファンは約三千万人いるのね?」
「あ、そうなの?」
「うん、世論調査では」
「それ誰がやったの?」
「うん、で、その内球場に足を運ぶのが毎回約四万人なのね?」
「マジで?」
「東京ドームの収容人数の約73%」
「それ確かな数字?」
「かなり」
「じゃあほぼ仁志目当てってこと?」
「うん、私巨人戦いつも見てるから」
「え?」
「数えてんの、仁志が好きそうな人の数」
「あ、そうなの…」
「そうなると、横浜ベイスターズのホームは横浜スタジアムでしょ?
「うん」
「あそこの収容人数は三万人だから、毎回一万人のお客さんがあぶれちゃうわけよ」
「え!大ごとじゃん!」
「大ごとなのよ。オーロラビジョンとか使っても、もうてんやわんやなわけ」
「そうだね」
「相手チームのサポーターが運良く入れても、もう球場内はヨコハマ・ブルー一色。もうワールドカップ2002の韓国サポーター状態」
「ヨコハマ・ブルー?」
「そう、ヨコハマっぽいブルー。ヤクルトとは違うの。でもさ、例えそうでも仁志は喜ばないの」
「そうかな?」
「そうだよ」
「そうなんだ。なんで?」
「分かんないの?それはね、仁志があんなに頑張ったのに、あんなに巨人のこと好きなのに、いらないってポイッて捨てられちゃったから」
「でもメジャーに行くって一時期言ってなかったっけ?」
「彼は巨人が好きなの。メジャー挑戦は浮気みたいなもんでさぁ」
「浮気?」
「だって嫌いなチームのためにあんな凄いプレーする人いないでしょ?」
「そりゃそうだけど、それはプロだから…」
「プロだから何?」
「プロなんだから色々割り切ってるんじゃないの?」
「プロだって人間でしょ?人間なんだから割り切れないことだってあるんだから」

 
 そう言って円ちゃんは俯いた。

「プロだから割り切れるなんて言い方したら、全国のあらゆるプロの皆さんが辛くなるでしょ」
「……。」
「誰かが時々、『私たちと同じように、あなたたちだって辛いんですよね。辛くて割り切れなくて納得できなくて、苦しんでいるんですよね』って言ってあげなきゃ、大変じゃん」
「…そうだね」
「でなきゃ仁志がかわいそうでしょ?」

 円ちゃんは俯いたままゆっくりと両手で顔を覆うと、くぐもった声で、

「仁志がかわいそう…」

 そう呟いた。

 そのまましばらくそうしていたからてっきり泣いているのかと思ったけど、そうではなくて、顔を上げてベンチに座り直した彼女の顔はいつもと変わりなく、ただ目の奥だけが少し優しく輝いていた。

「ごめんね」
「ん?」
「探しに来てくれたんでしょ?」
「ああ、いいよ」
「ごめん」
「うん」

 沈黙。彼女は真っ直ぐ前を見つめている。そうやって何を考えているか分からない表情をするのは、もう彼女の癖みたいなものだった。そうしておいて、一息吐いてからゆっくり話し出す。いつも大事なことをどうしても話さなければならない時に、彼女が必ずする癖だ。

「…ここに来たのはね、ちゃんと思い出しておこうと思ったから」
「何を?」
「あの晩に起こったことをね、もう一度ちゃんと、と思って」
「……?」
「私、会ってんのよ」
「え?」
「会ってんの、最期に、あの子と」

 最期というのがいつを指すのか、あの子とは誰か、なんてことは、彼女に改めて聞かなくてもすぐに分かることだった。

~つづく~

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