最期に一言~and now.~(10)

 心の左の頬には、転んだ時の擦り傷を四十倍にも酷くしたような赤黒い痣があった。可哀想に、私はその傷にそっと触れる。
「触ったら痛い?」
 心は目も覚まさない。
「歯は折れてない?」
 スー、スーという荒い息遣いが聞こえてくるくらい顔を近付ける。心臓がちゃんと動いているのか確かめようと思って耳を心臓に寄せようとしたら、心が瞼を開けるのが見えた。
「おはよう」
「(おはよう)」
 心の口を覆う透明の呼吸装置が微かに白く曇っている。
「大丈夫?」
「(…まどちゃんは?)」
「首痛い」
「(お父さん、お母さん…)」
「今お医者さんと話してる」
「(転んだら危ないね)」
「…?」
「(うん)」
「…うん、転んだら危ないね」
「(いつか怪我しちゃうよ)」
「そうだね」
「(だから、お願いね)」
「大丈夫」
「(うん)」
「もう、誰も転んだりしないから。もう誰も怪我したり、痛い目に遭ったりしない。私がちゃんと見てるから。ずっと気を付けておくから」
「(うん)」
「うん」
「(……。)」
「……。」
「(…まどちゃん)」
「うん?」
「(なんで…)」
 そう言ってまた心は目を閉じた。そのまま後は目を開けなかった。

「そのすぐ後に看護婦さんが戻って来てね、私はまた隠れていてからこっそり部屋から出てったんよ。来た時と同じように」
「…転んだら危ないっていうのは?」

 僕は恐る恐る聞いてみた。

「うちのお父さんとお母さんは雪道でよく転んでさ、それが二人して同時に転ぶもんだから私と心はよくそれ見てからかってたんだよね」
「おじさんとおばさんは心ちゃんの最期の言葉と円ちゃんが出て行った時の書置きが同じだって言って不思議がってたけど」
「そりゃ同じにもなるかもね」

 円ちゃんのお父さんとお母さんが聞いた言葉は、円ちゃんが心ちゃんに会う前に聞いたものだったのだろう。「お父さん、お母さん、転んで怪我しないで」。それは二人だけの共通の認識だったものらしい。

「『なんで』ってね、そう言われたわけよ、私はね。それが最期で。浮かばれなかったろうなぁと思うのよ」

「なんでこんなことに」、「なんで私だけが」、「なんで私がこんな目に」…心ちゃんがどんな意味でその言葉を最期に言ったのか分からないけど、円ちゃんだったらきっと、「なんで円じゃなくて私がこんな目に」、そんな風に考えて自分を責めたに違いない。私が助手席に座っていれば、私があの席に座っていれば、そうやってこの七年間、ずっと自分を責め続けたに違いない。

「だからって誰も円ちゃんを責められんでしょう」
「分かってるっつの、そんなこと。私が悪いわけないじゃない。そんな風に誰かにもし責められたらすっごい腹立てると思うし。分かってるって」

 それでもきっと彼女は責め続けたのだろう。忘れないようにして、それを他人にも強いて、そうやって人に迷惑をかけることでさらに自分を責めて、逃げ出して、逃げ出してもまだずっと責め続けて、こうやって戻って来てまで、責め続けている。彼女のことが忘れられずにいる。

「あのね、今、もしかしたら勘違いしてるのかもしれないから言っておくけど…名前をさ、呼び間違えて欲しかったのだってさ、せっかく双子キャラで売ってたんだからさ、勿体ないじゃない。私の存在意義がなくなっちゃうじゃない。いなくなったのだってさ、東京に行きたくて。今さらだけど晋ちゃんには悪いって思ってるし。インさんのことだってさ、たまたま似てただけだし。皆が思うほど別に深いこと考えてるわけでもないし、もう七年も前の話なんだから、そんなひ弱じゃないんだから忘れてるっつの」
「…円ちゃんがひ弱じゃないのは知ってる」

 こんなに長い時間意地を張れる人なんて、よっぽど鼻っ柱が強いかバカかのどちらかだ。

「うそつき」

 僕らの座るベンチのすぐ隣の茂みから声が聞こえてきた。

「ん?…誰?」
「…インさん?」
「そうです、よばれてとびでてインさんです」

 誰も呼んではいない。

「あのぅ…ずっとそこにいたわけ?」
「そうですよ」
「物好きな」
「きいてましたよ、ずっと。うそつき」
「嘘なんかついてないよ」
「うそ」

 インさんの肩は細かく震えている。こんな寒空に外套も着ないで茂みの中に潜んでいればそうもなりそうなもんだが、もしかしたら理由はそれだけではないのかもしれない。

「うそつき」

 暫く立ち尽くしていたインさんは再びそう呟いた。それを聞いても円ちゃんは、ただじっと座っているだけだった。

~つづく~

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