2015年3月15日(日)、雑記。

どうも、須貝です。
最後にいつ書いたか忘れるくらいぶりの更新です。すみません。

来月の今日開演致します、monophonic orchestra 5 『さよなら、三上くん』の稽古中でございます。どちらもぶいぶい出来上がってきております。どちらも、というのは2バージョン公演なんですね。それぞれ望郷編と追憶編と名付けております。なんとなく昔の日本映画を意識しています。4月15日(水)~22日(水)ですよ。

どちらも出演者が違い、脚本も違いますが、同じ高校の現在と六年前を舞台にしております。どちらか一方だけでもお楽しみ頂けますけど、通し券なんて心憎いものもございますので是非ご利用下さいませ。今回はチラシもかわいいよ。

公演詳細はこちらから。

望郷編→http://monophonicorchestra.com/boukyou-page
追憶編→http://monophonicorchestra.com/tsuioku-page

予約は既に開始しております。土日がかなり混み合うと思われますので、お早目のご予約をお勧め致します。
※ちなみに、今回2バージョン公演のため、ご予約の際にいくつかお願いをしています。詳しくは下記、注意事項をご一読下さい。

注意事項→http://monophonicorchestra.com/attention

と、いうわけで、久々に雑記をば。

・人付き合いのスタンスというのは人それぞれなんだろうなぁと思うのですが、「人は通じ合うもので、たまに裏切られる」と思う派の人か、「人は基本的に裏切るもので、たまに通じ合う」と思う派の人か、大きく分けられるかもしれません。性善説と性悪説と言ってもいいですけど。僕はどちらかといえば後者のような気がします。

誰に対してもということではないですけど、所詮通じ合えないと大部分思っている所があって、だからこそ脚本を書く時なぞはそれが通じ合う瞬間の感動のようなものを扱っていることが多い気がします。誤解と理解とがあって。全て分かり合えるとは思っていないし、かと言って全く分かり合えないかというとそんなこともないんですよね。

・男子たるもの紳士であることを心がけるべきだなと思います。紳士であることに他人からの評価や勲章や賞与はないんですね。個人の心の在り様の問題だから。視界の狭まる世の中ですが。

・最近今更ながら『東京喰種』にハマっています。ラストのテンションの高さと続編である『:re』への繋がり方が好きなんですよね。同一の人物が多作品に渡るという点で共通しますが、海外ドラマの『ハンニバル』にもハマっています。僕は子供の頃に『羊たちの沈黙』に衝撃を受けたもんで、映画も小説も好きなんですが、ハンニバル・レクターという局所的な悪人の美学といいますか、殺人者なのですが納得せざるを得ない筋の通った生き方といいますか、そういうキャラクターの作りに唸らせられます。

ドラマ版『ハンニバル』の何がいいって、キャスティングがいいんですね。主人公のウィル・グレアム役はエドワード・ノートンよりこちらの方がなんとなく腑に落ちる感があります。レクター博士も怪物過ぎなくていい。ジャック・クロフォード役がローレンス・フィッシュバーンっていうのは、この役に初の黒人を起用ということで冒険のような気もしましたが、ハマってます。まだ全部観てませんけど、どうなるか楽しみですね。

『羊たちの沈黙』の前日譚なので、原作を知っていると彼らが今後どうなるか分かっているわけで、そうなるとどういう経緯でああなるのか、というのが楽しみです。
というか世間的には『羊たちの沈黙』が最初に出てるような感がありますが、『レッド・ドラゴン』の方が先だったはず。しかも絶版になってたのが、『羊たちの~』のヒットで再版されてたような。『レッド・ドラゴン』読みたい。

・名前を付けるのが好きです。多分創作の過程において一番好きな作業であると言っても過言ではないでしょう。
今回の作品タイトルに冠されている三上くんという名前ですが、一応意味があります。本編を見てなんとなく分かる方は分かるかもしれません。乞うご期待。
それ以外のキャラクターの名前も一貫したルールがあるんですけど、そっちは本編とは全く関係ありません。

キャラクターを作り出すという作業は、最初無責任に生み出す所から段々とそいつに対して責任感が生まれ始めたり親近感が湧いたり幾日も繰り返し考えるようになったりという順序でも進みますし、メインキャラ、特に自分が深く投影されているような役はいつの間にか僕から離れて勝手に行動していたりして、その動きをただ追って行くだけになっている時もあるという、ままならなさが最高に楽しい作業です。

・「美しさ」を扱うならば、何かを「美しい」と感じた回数が人並み以上に多くなければならない。

・自分が救われていることを、大事にしなければ。「誰かを救う」というのは実はそんなに強くない。見も知らぬ会ったこともない人を救えるかい?自分の感情以上に他人の感情を強く感じられるわけでもないのだから、まずは自分が救われないと、足元が掬われている気がする。掛詞。だから出発点はそこ。

・こういう世の中では、どういうって言われたら困るけど、とにかくこういう世の中では、気高さのようなものはあらゆる面で大幅に敗けてしまうのかもしれない。最後の最後まで敗け続けるのかもしれない。それでも最後の最後の最後に人を支えるのは、気高さだと思う。

ひと月後、千歳船橋で待ってるよ。

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