帰る道すがらの車内は沈黙に支配されていて、後ろの座席に座るインさんはずっと窓の外を見ていたし、前を走る円ちゃんの運転する車も、明らかに制限速度を三十km/hはオーバーしている。クラクションを鳴らして控え目に注意しても、腹立たしげなクラクションが二回ずつ返ってくるのみで、その時若干スピードを落としても、結局はまた雪道を走るには速すぎるスピードで走り去ろうとするのであった。その度にまたクラクションを鳴らして注意。返ってくる苛立たしげなクラクション、一回、二回、時に三回。牽制してまた一回鳴らせば、思い切りデカイのが一回返ってきてまた沈黙。遊んでるんじゃないんだぞ、こっちは。
「うるさい」
「あぁ、ごめん、でも…」
あー、やだやだ、どうしていつもこんな役回りなんだ。神経を遣う雪道の運転をしながら二人の気の強い女のお守り、じゃあ無視しろよと言われても僕にはそれが出来ない。もし出来たら今頃違う人生を歩んでいただろうよ、たぶん。
「そんなに怒るなよ、インさんがそこまで怒ることじゃないだろ?」
「かんけいないことにはらがたったらいけませんか?」
「いけないとは言わないけど…」
「わたしがおこるのはおたどちがいですか?」
「お門違いね、それを言うなら」
「どっちだっておんなじですよ!!」
「いや、同じでは…」
「なんですか、ちょとにほんごしゃべるだけでおりこうさんきどりですか!!」
「いや、まあ一応日本人だし…」
「フンダン!!」
「え?」
「バカ!!」
「えぇ…」
くそー、なぜこんな目に…
「…最悪だよ、雪まで降ってきた」
横殴りの風のせいで車が真っ直ぐ進まない。車線に沿うだけでもハンドル捌きに神経を遣う。これだから冬のドライブは嫌なんだ。おまけに路面は凍結していて、ブレーキを踏んでもまともに止まりゃしない。前を行く円ちゃんの車は、やはりスピードを出し過ぎている。
「危ないな」
「バカはしななきゃなおりません」
「よく知ってるね、そういう言葉。でもどんなバカでも死んじゃったら直せるもんも直せないよ」
「あたりまえじゃないですか!!バカ!!」
「んぐっ…」
円ちゃんの車はどんどんスピードを増していく。いくらストレスを解消するためだからって、雪国の一般道で八十km/h以上出したら危険だってことくらい、分かりそうなものだ。もう一度クラクションを鳴らす。一回、二回、三回。しかし今度は返ってこない。少しずつ遠ざかっていく。
「あのバカ…インさん、円ちゃんに電話してくれる?」
「うんてんちゅうのけいたいでんわによるつうわは…」
「かけるなってね、はいはい」
速度計に目をやる。六十五、七十、八十…おい、ちょっと待ってくれよ、勝手に先に行くなよ、俺を置いて行くんじゃないよ…。
段々焦る気持ちが募ってくる。どこか入ってはいけない廃工場か何かでかくれんぼをしていて、夢中になって遊んでいる内にすっかり暗くなってしまい、しかも仲間の一人がどんなに呼んでも見つからない、そんな胃の下の辺りからジワジワと立ち上ってくる焦り、感情、遊びじゃないんだ、無茶をすれば死んでしまうんだ、分からないことではないだろうに、そんな考えが頭を支配し始めた時にはもう容易には追いつけそうもないほど、前方の円ちゃんとの距離には差が出来ていた。
「電話してくれ」
「でも…」
「もうそんなことを言っている場合じゃないんだ」
嫌な考えばかり頭に浮かんだ。何だってそんな急に、子供みたいな癇癪を起こしているんだ?もしかして…そう、その思いがあったのだ、確かに。もしかしてそうやって死ぬつもりなのか?元々死ぬつもりだったのか、と。
「バカめ」
後でぶん殴ってやる。人の気も知らないで…。しかし、人がいかに自分を思っているかなんて、自分が誰かのことを必死に思ってやってもそんな思いは届かなかったり、逆に誰かが自分のことをとても思ってくれているのにそんなことには気付けなかったり、誰かが誰かのことを思う気持ちなんてものは、一体どの程度伝わるものなのだろう?そんな気持ちは迷惑なだけか?
君のお父さんやお母さんだって、僕だってインさんだって、どんなに君の事を思っているか、どうせ君には届かなくても、知ってくらいはいて欲しいんだけどな。同じ思いを自分だって誰かにさせているんだろう。世界のどこででも、そういう歯がゆい行き違いや食い違いが横行しているのだろう。所詮僕らの言葉は音速ですれ違っているのだ。
追いつくことを諦めた僕はスピードを落とし始めた。とりあえず制限速度まで徐々に落としていく。インさんはまだ電話をかけているが、円ちゃんは一向に出る気配がない。もう彼女の駆る車は辛うじて目で追うことが出来る程度だ。知ったことか。
後で思い出してみれば、確かに前にばかり気を取られていたと思う。何とか見失うまいと思って前を行く円ちゃんの後姿ばかり追いかけていた。だから左の脇道から頭を覗かせたそのトラックに気が付いたのは、本当に衝突する一秒か二秒前、瞬時に対応出来たことが不思議なくらい直前のことだったのだ。
僕とインさんにとって運が良かった点は三つ、まず一つにそのトラックが鼻先だけ出して止まり、僕らに気付いてバックし始めていたこと、もう一つは僕らが円ちゃんを追うことを諦めて速度を落とし始めていたこと、もしそうでなかったとしたら僕もインさんもただでは済まなかったであろう。そして三つ目には僕が普段決して発揮できないような奇跡的な反射神経によって、ハンドルを右に切ることが出来たこと、その三つのおかげで僕らは死なずに済んだ。
アッと思った時には重い衝撃、鈍い揺れが体中の自由を奪い、丁度左の後部ドアの辺りをトラックの鼻先にぶつけながら、その反動で反時計回りに僕らの乗る車は勢いよく回転した。鋭くスリップして今度は右前部のライトの辺りから右側面全体にかけて思い切りガードレールに突っ込んで停止する。後は驚くほどの静寂が訪れた。ピー、ピーという電子音だけが車内のどこかから響いて来る。
何とか頭を起こしてルームミラーを見る。インさんは後ろでぐったりしている。今度は前を見つめた。僕らの方へ走り寄ってくるトラックのドライバー、人の良さそうな人だ。もう少し年齢が近くて、そしてこんな状況じゃなかったとしたら、きっと僕らはいい友達になれていたはずだ。いや、これを機に年齢を超えた