最期に一言~and now.and,and,now.~

 朝起きると、目覚ましが止まっていた。時間はセットされているけど、スイッチが入っていない。時刻は現在六時半、寝坊したという時間では決してないけど、朝食は食べられないかもしれない。朝っぱらから躓いた。あまりいい気持ちではないが、別に不愉快ってわけじゃない。

「おはよう」
「ああ、おはよう」
「朝ごはんは?」
「んーや、いらない。ごめんね」

 そう言って僕はシャワーを浴びに浴室へ向かう。父はまだ起きていない。母はあらそう、とだけ呟くと、再びキッチンの方へ戻っていく。

 一人暮らしをするつもりだったけど、結局僕はそうしなかった。別に一人で暮らすこともない、実家にいて何も不満がなければ、節約できるお金は出来るだけ節約した方がいいに決まってる。この家からだって、僕は車で一時間も掛からずに仕事先に行けるんだから。

 シャワーを浴び、歯を磨き、スーツに着替えてネクタイを締める。新生活に入って二ヶ月でやっと服装に気遣う余裕が出てきた。いや、適当にしていたというわけじゃあもちろんないんだけど、ネクタイの本数は三本から六本に増えたし、シャツの枚数だって薄い青のシャツ、ストライプの入った白いシャツ、二枚の新たな強力オシャレ要員が追加されたのだ。僕にとっては大きな進歩だ。いつまでも白シャツに三本のネクタイでローテーションじゃあ、味気ないってもんだ。銀行員だってこっそりオシャレしたいんだ。

「行ってきます」

 近頃はジメジメと梅雨らしい天気が続いていたが、今日は久しぶりに晴れ間が覗いている。車に乗ってさぁ出発しようとしたその時、こちらの方に円ちゃんのお父さんが歩いてくるのが見えた。向こうも気付いたようで、こちらに向かってひらひらと手を振る。僕は車の窓を開けた。

「おはようございます」
「おはよう、晋ちゃん。今からお仕事?」
「はい。おじさんは?」
「今日は気分が乗らないから休んじゃおっかな~、なんて!ダハハハハハハ」

 あぁ、そうですか。

「で、何かあったんですか?」
「いや、晋ちゃんとこのお父さんも一緒にサボらせて美味い蕎麦でも食いに行こうかと思って」
「ちょっとちょっと、やめてくださいよ!」
「大丈夫、ちゃんとうちのも晋ちゃんのお母さんも誘うから」
「いやいや、そんな心配してるんじゃないですよ!うちの親父まで巻き込まんで下さいってことで…それ、何ですか?」

 よく見ると円ちゃんのお父さんは一枚の葉書を手にしていた。

「ああそうだ、これ、晋ちゃんに渡そうと思って。円から来たんだ、二人の写真も載ってるし。今ってこういうのも簡単に自分で出来ちゃうんだね。デジカメ?プリンタ?」
「どうも…あ、時間…じゃあ、僕、もう行きますから。これ、ありがとうございます。…それから、サボるんなら一人でサボって下さいよね」
「手厳しい~」

 …やっぱり一人暮らしした方が良かったかな…。

 車を走らせながら僕は円ちゃんのお父さんから手渡された葉書に目を向けた。それは中国から送られて来たものだ。
 あの事故の怪我が癒えてからひと月ほどした頃、円ちゃんとインさんは中国へ渡った。インさんのお父さんの仕事を本格的に手伝うことになり、こちらに作る社員寮の手配も済ませて、半年ほど向こうで工場の日本進出の準備に携わるのだそうだ。

「寂しくなるでしょ?」

 去り際にそう言った円ちゃんのいやらしい笑い方がムカついた。

 葉書には二人のメッセージが書いてある。

「転んで怪我しないでね。円」

 それともう一つ、たどたどしい日本語で、

「どっちがどっちでしょう?いん」

 とあった。

 葉書の裏側、メッセージの上に配された二人の写真を見る。海沿いの小高い丘で撮ったものらしい、眼下に小さな漁村を眺めて、二人の背後には藍色の海が広がっている。

 二人はとても楽しそうに笑っている。悪ふざけが見つかった子供が、ざまぁみろ、でもあんたの体面のために一応すいませんって言っといてやるわ、とばかりに笑っているような、そんな笑顔。

 どっちがどっちか、そんな風に聞きたくなる気持ちもよく分かる。そう、その写真で見る限りでは、もうどっちがどっちだか、ほとんど分からなかったのだから。

~おわり~

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