居座るということ。

二〇一九年も四ヶ月目に入り、そんな日々の雑記。

○居座るということ

いつもいつも大仰なことを言うなあと自覚しつつ。最近の自分は毎日死に向かって生きていることを感じるし、考えるようにしている。あと何年生きるか分からないが、死ぬ間際にじたばた苦しむよりも、今から考えておいて少しでも身近に感じられればと考えている。限られた時間の中で、できれば良い仕事をしたいと思い、できれば良い作品をこの世に遺したいと思い、できれば良い影響を後進に与えたいと思いながら生きている。
かと言って毎日ご立派に生きるのは難しい。だらだらと生きている。時間を無為に過ごすことも無駄に浪費することもやっている。意に反して死ぬ間際にじたばたする様が目に見える。それもまた面白い。

三十を半ば近く過ぎて、今、「生きている」というよりも「居座っている」という感覚の方が強いなぁと感じる。

僕が爪先を浸している世界は才能がなくてもやっていける世界ではないが、才能があればいいというわけでもないと思う。やればやるほど才能という言葉で括られない何物かを感じる。自分に才能がないとは思わないが、溢れていると思ったことはない。小さな挫折を積み重ね、補う努力もしてきたが、それでもいつも足りることがない。その内、自分が自分の期待を裏切り続けることに耐えられなくなっていく。自分が立派な人物ではないことに毎日向き合わざるを得ない。目を逸らさなければ結局そういうことになる。生きている意味や意義はあると息巻いていた時代も終わり、今はそれらが掴みようのないもの、ぼんやりとしたものだと頭のどこかで分かっていて、それでもこの世界に居座りながら、次に何をすべきなのかと考えている。

なぜまだ居座っているのだろう。職業という意味でのこの世界には居座るべきだ。まだ何も成し遂げていない。まだまだ面白くなりそうだ。
生命という意味でのこの世界にはどうか。近しい人がこの世界を去って行くのに何度か立ち会って、その度になぜ自分が生き残っているのかと考えない日はない。なぜ僕ではなくあの人だったのだろう。いまだにあの人を殺したのは自分だと毎日のように考える。救えなかったということは殺したのだ。あの人を殺した世界の一部なのだ、この僕も。その事実とどう折り合っていけばいいのだろう。

どうせ居座るからには図太く無神経に、その答えを探っていければいいのに。

○『物語ほどうまくはいかない物語』について

僕の場合は一つの作品に三割から五割くらいは自分の経験や感想が影響してくる。もちろんどの場合も虚実織り交ぜながらそれとはっきり分からないようにやるのだが、三月に終演した『物語ほどうまくはいかない物語』は八割くらい自分の話だなという感想を抱いた。かつ、取材と準備に充てた時間もそれなりに長かった。八割が自分の話でかつその大部分が取材に基づいて書いた話であるという、ドキュメンタリーでありながら私小説のような、自分にとっては変わった感覚で作ることができた。楽しかったが、とにかく長く苦しい道のりだった。

まずはインターネットの記事で「場面緘黙症」(ばめんかんもくしょう)という病気の存在を知ったことから始まる。ある特定の場面で話せなくなってしまう状態で、詳しい説明は省くが、黙ってしまう人というのは喋ることがなかったり何も考えていなかったりするわけではなく、自己評価の低さゆえに自己表現ができず、その自分に絶望して自己評価が下がってさらに自己表現できなくなるという無限ループの中にいる。地獄のように感じるだろう。

この「場面」という言葉が重要で、場面緘黙の人は場の中でうまく立ち回ることができない。黙って自分を殺すことしかできない。対話を促すためや静観するための沈黙ではなく、単に喋ることができない。良くも悪くも「場」を成立させることに長けていると評価されることの多い日本人の中で、そういう人たちが増えている。もしかしたらSNSによって肥大した自己意識、評価や批判に晒されることに極度の恐れを抱いた結果の社会病なのかもしれない。間違った自己主張文化の成れの果てのような気もする。などと言いながら、まぁ多かれ少なかれそういうことは昔からあったよねとも思う。極端になってきているだけなのかもしれない。子供の話ではない。大人に増えているのだ。

喋れないことも一つの表現の形だと思う。大事な考え方として、「喋らないからダメ」なのではなく、「喋らないのはなぜか」であり、「喋ってはいないが、何を考えているのか」、「どうしたらそれを知ることができるのだろうか?」といった発想なのだなと思った。自分にとってこの人たちの心の動きはよく分かったし親近感を抱かせた。自分はそういう病気ではないが、自分にも少なからずそういう部分があるからだ。僕に限らず皆さんにもあるのではないか。僕の場合は黙る代わりに、自分では気付かずに嘘をついていることがある。

正確には嘘ではないのだろう。納得はしている。新しい自分の意見だと思っている。ただ、自分が本当にそうしたいのか、疑問を抱くことが多い。これは最近のことで、昔は逆に頑固さゆえに苦しんだ。それを変えようとした結果、本当に自分がそうしたいのか見失うようになった。作品の主人公である紗那も、本当は言いたいこともやりたいこともあるのだが、それを諦める。やめて人に合わせることに慣れ切ってしまった人間だった。

自分は最良の選択だと思っているが、世間や社会や周囲の人間の利益に当てはまらないことがある。よくある、日常的にある、ありふれたことだが、それがあまりにも生き辛さを生むので、本当に疲れてしまう。だから考えを曲げる。本当はベストじゃないと感じていたり、後になって自分が危惧していた通りになると「ほら、やっぱり」と考える。こんなことは健全ではない。

紗那はその不健全さから逃れようとして、ある点では逃れ、ある点では受け入れたのだろうと思う。人の中で生きていくからには、全てを自分の思うように進めることは不可能だ。人だけならまだしも、自然や偶然や巡り合わせで抗えないことも多い。それをはっきりと理解しながら、自分を通すべきことと譲らざるをえないことを丹念に仕分けていく。純粋に良い結果を生むことを私情を挟まずに判断していく。難しいことだが、価値がある。

紗那が父と二人で書き始めたことに対して投げられる言葉は全て、自分が俳優だけでなく脚本と演出もやり始めた時に言われた言葉だ。全て実際に言われた。「俳優だけでやってく度胸がないからでしょ」、「片手間にやりやがって、本物の脚本・演出家に謝れ」、「俳優だけやっていればもっとものになったのに。俳優をやっていた当時の自分に謝れ」。よくもまぁ好き勝手言ってくれたものだ。そういう言葉が人を殺すかもしれないと少しでも分かっているのだろうか。同じ苦しみを味わったこともないくせに。だけどどうでもいい。今の自分がどうだろうが、別に「ざまぁ見ろ、俺はやっていけているぞ」とも思わない。驚くほど虚しい気持ちだ。作品に乗っけたら少しは気持ちが晴れるものかと思ったが、作品になった時点で自分から離れていったし、今は気にもしていないのだと確認することができた。だが、僕を傷付けたあなたたちの言葉を僕は死ぬまで忘れないし、あなたたちを許すことは決してない。

紗那は強い。僕も救われた。いつも自分が書く登場人物たちに助けてもらう。本当にありがたい。僕の思い通りになんか動きゃしないが、君たちは僕の理想だから、だから僕をいつも助けてくれる。裏切らない。ありがたいことこの上ない。

○演技について

ある人物を演ずる際に、以下のようなことを考える。

一.その人物はいくつの仮面(表情や声)を持っているのか。
二.その人物は何着の衣装(身体性)を持っているのか。
三.その人物は一と二をどういう場合に、誰に対して纏うのか。
四.その人物は自分が仮面や衣装を纏っていることを常に自覚しているのか、ある時は自覚しているのか、常に自覚していないのか。
五.その人物は仮面や衣装の下にどういった身体(人間性)を持っているのか。

仮面と衣装と身体を明確にしていけばいい。役作りは純粋な脚本読解であり分析であり、自己投影ではない。演ずる役の中に自分に似た部分があったとしても、それを役作りの核にしてはいけない。似ている部分があったとしても、それはその役の一つの側面でしかない場合が多い。似ている部分と同じくらい、似ていない部分にも目を向けなければいけない。自分の価値観を捨てずに役に向き合う限り、自分から離れることは決してない。自分をヒントにするのは構わないが、あくまで役で演ずる人物は自分とは別人であることを忘れてはいけない。例え自分に当てて台本を書いてもらっていたとしても。

○バカについて

僕に学歴があるのは別に誰かに対して優位に立ちたかったからではなく、やりたいことを選んでそれに向かってやるべきことをきちんとやったら結果そうなっただけだ。頑張って勉強したから得られた結果なだけで、それに対してグダグダ言って来る意味が分からない。俺だって自分より頭がいい人が世の中にはごまんといることは分かってる。でもひがんだりしない。お前がバカなのは別に俺のせいじゃない。足りないなら補えばいいだけの話で、それを補わないのはお前の努力不足だろバカが。持って生まれたものはそれぞれ違う。得意不得意がある。それをきちんと尊重した上で接しているのに、それすら拒絶するようなら対話のしようがねえじゃねえかバカが。

知識をひけらかしているわけではなく、作品を作っていくために最低限必要な知識さえ足りていないからいちいち説明してやらなきゃいけないんだろバカが。映画も観ない本も読まないドラマも観ない芝居も観ないで何が俳優だバカ。ナメてんじゃねえぞ。なんでお前のバカに俺が合わせてやんなきゃいけねえんだバカが。お前がバカなせいで恥かいたならなりふり構わず補えバカ。怒鳴ったり怒ったりごまかしたり逃げたり転嫁したりしてんなバカ。

俺だって常に勉強が足りないと痛感してるんだ。それを必死で補ってんだ。仕事なんだから遊んでねえでやるべきことやれバカ。賢い人と仕事をするのは楽しい。学歴をひけらかすバカ、学歴がないことを卑屈に考えるバカ、色眼鏡掛けたバカ、現状を把握しようとしないバカ、人を尊重しないバカ、そういう輩と仕事するのが一番疲れる。関わりたくない。僕の限りある人生から締め出したい。あらゆる人に対して開かれていたいし、自分の狭量さでその人を判断したくはないが、ものには限度がある。バカはバカ同士で遊んでろ、バカが。

○雨音を聞いている平日の昼間について

昼頃に起き出して
時計に起こされたわけではなく
室内に一人
サラサラとアパートを洗う雨音を聞いている
曇り空が薄汚れたカーテンを通して室内を柔らかく
ぼんやりと明るくして
頭を抱えて
もう既にはじまってしまった今日をどうはじめるか
考え込んでいる
冷たい床に裸足を投げ出して
情けない涙が出てくる
いつも手に入らないもののことばかり考えている
あなたに
誇りに思ってほしかったのに
それだけだったのに
たったそれだけのことがこれほどまでにうまくいかない
何を食べようかと考えながら
これからどう生きていこうかと考えている
雨音がサラサラとアパートを洗って
やまない

○今後の予定について

実は色々決まっているんですけど、まだ言えずにいるんです。出演も脚本も演出もいいバランスでできそうな二〇一九年です。

色々決まっていきますが、早めに皆さんにお知らせできるようにしたいです。まずは五月末に出演があるので、そちらを観に来ていただけたら幸いです。大学の先輩、山本健介さんが主宰を務めるジエン社さんの公演に出演します。その他も次回作品という所にどんどん更新されていきます。モノフォニのHPにも更新情報載っていきますので、そちらもチェックしていただけたら幸いです。

花粉症の季節がやってきましたね。桜の季節がやってきて、一年が巡っていきますね。
歳を取っていくんですね。

皆さん、お体に気を付けて。

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