大きなことを考えるということ。

どうも、須貝です。ご無沙汰しております。

カリンカ vol.2『その美女、自覚なし!』無事終演いたしました。ご来場くださった皆さま、応援してくださった皆さま、ありがとうございます。

来月11月にはタイマン vol.5『かなわない夢ガール』の演出、さらに翌月にはTAAC『だから、せめてもの、愛。』への出演と続いてます。その間にもちょいちょい色んな現場に顔出してます。楽しく演劇のお仕事をさせていただいております。多謝。

今日は大きなことを考えていきたいと思います。

○大きなことを考えるということ。

モチベーションを自身の成功や利益にのみ置く仕事の進め方は案外早く限界を迎えるような気がします。僕の場合は28歳か29歳くらいの時に終わりました。当たり前かもしれないんですが、「自分のために」頑張ってる内は得しようが損しようが「自分」にしかリターンがないので、サボろうと思えばいくらでもサボれてしまう。損するのはどうせ俺だけだし。一人のために頑張れることは一人分のパワーしかない。それ以上になる錬金術はおそらくない。

では例えば僕は今何のために頑張っているかと言えば、

・自分のため
いきなり矛盾してますが、自分が楽しくあることがまず大事だと思うので、もちろんそちらも相変わらずある。お金を稼ぐためには必ず苦しまなければならない、なんてことはないわけなので、楽しくお金を稼いでも誰に責められるわけでもない。むしろいいことですよね。楽しくあるべきだと思います。楽しくなければやめればいいんです。人から見れば苦労と思われることも、自分一人は楽しいと嘘をつかずに感じるのであれば、その仕事はあなたに合った仕事なのだと思います。

・家族のため
経済的な意味も強いかもしれません。この「家族」にはもちろん僕や妻だけでなく二人の実家の両親・兄弟・祖父母、親戚も含まれていて、応援していただいているので何かお返ししたいと思って頑張ってるし、いつもどこかで見られているような気持ちで仕事しております。次に、

・友達のため
生きている友達も生きていない友達も。演劇仲間も。近しい人たち。彼らを失望させたくない。自分が彼らの生きる上でのエネルギーになれるようにありたい。誰かが「おお!」という仕事をゲットしたら「すげえな!」、「頑張れ!」、「悔しい!」と思うし、結婚した、子供が産まれた、そういうことも生きていくエネルギーになる。自分も誰かにとってのそういう存在でありたい。そして、

・若い人たちのため
この辺りからちょっと大きい話になると思うのですが、日本の演劇のために頑張ってます。若い人たちと話す時はできれば愚痴りたくないなと思っていますし、夢のないことや誰かの悪口を言いたくないとも思っていて(あの人には近付かない方がいいという警告は全力でする)、なぜなら彼らが将来に対して希望を抱けなくなるからです。

例えば僕は今年35歳になります。こんだけ色々な現場に顔出してて、もしアルバイトで生計立ててます、仕送りもらってます、という状態だったら、若い人たちは演劇なんかやってられるか!と思いますよね(思うべきです)。今も別にバイトしてもいいんですけど(バイト楽しいから)、バイト探すくらいなら一本脚本書いて上演してもらった方がお金になるので、そっちで変わらず頑張っていこうと思っています。

演劇やら何やらが四~五本くらいずつ同時に進行している状態が一年くらい続いているんですけど、これは無理してでもそうあるべきだと思っています。僕は色々同時に進める方が性に合っているのでそうしているし、そうできている部分もあると思うのですが、じゃあこれが例えばですよ?35歳になって20歳の子に「バイト超忙しい」って言うって、地獄じゃないですか。嘘ついてでも演劇で忙しいと言ってほしいですよ。誰かの憧れとして自分は忙しくあるべきだし何でもできるべきだし常に上を向いているべきなので、そのために頑張っています。加えて、

・上の世代の人たちのため
先輩たちを安心させたくて頑張ってます。下のやつら全然育ってねえんだよ、とか、焦らせてくれねえんだよ、とか言われるのは心が痛いので、是非安心感と危機感を感じていただきたくて頑張ってます。やっぱり先輩たちは偉大なんですけどね。なかなか追いつかせてくれないんですけど。

逆に尊敬できない先輩方のことは考えたくもありません。僕たちに夢を見させてくれる人だけが僕らの先輩です。最後に、

・お客様のため
優先順位が低いわけじゃなく、関わっていく順番を考えるとこの順になるのですが、お客様には面白い作品にばかり触れていてほしい。結局それが演劇界を賑わすことになるから。

これだけたくさんのエンターテインメントがある中で、演劇を選んでいただくことの意味を考えます。そこには演劇の面白さがあるべきで、代替不可能なものがあるべきで、それは結局人間がそこにいる面白さで、だから演劇においては俳優はキラキラしてるべきなんです。そしてその場にいるお客さんもキラキラしてるべきなんです。

一ヶ月くらい前からウキウキして、仕事中もソワソワして、お気に入りの洋服を着て、チケット握り締めて劇場にやって来て、そしてめいっぱい楽しんで帰ってもらう。それ以外の正義は演劇にはないと思っています。最後じゃなかったな、本当に最後に、

・この世界のため
日本と言ってもいいんですけど、こんだけ世界が身近な世の中ですから、世界と言っておきましょう。世界のためにやってます。この世界が少しでも前に進むように。

何年後にどう言われるかは常に分からない。批判されるかもしれないし、絶賛されるかもしれない。でもこれは、常にそうではないかもしれないけど、何もしないで死ぬよりは悪名残して死ぬ方がマシだと思ってるんです。今必要だと思うことをやりたいし言いたい。発信したい。僕にしか言えない言葉があるとして、僕でなければ伝えられない人たちがいるとして、だとしたらその言葉は僕が言うべきなんです。

どんな行動も必ず世界に影響を及ぼしていると思っています。何も変えていないと感じるのは錯覚です。あなたが誰かを誹謗することで世界は憎しみへの道を一歩進んだかもしれないし、あなたが手を差し伸べたことで世界は光の道を一歩進み始めたかもしれない。この世界に責任を持って生きていきたい。

こういうことを言うから若い時は生意気だと散々言われたわけですが、やっと年齢が追いついてきました。日本の演劇をこれから背負っていくのは自分たちだと思っているので、また怒られそうですが、変わらず大きなことを考えていきたいと思います。

分相応の二、三歩先を歩いて行きたいんです。常に頑張らないとうまくいかない状態にいたい。

○脚本家同士が助け合うこと。

『その美女、自覚なし!』では俳優の他に構成協力という形でも関わりました。チラシには載っていなかったのでお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、当初はそういう予定ではありませんでした。

簡単に言えば書くのに困ったから僕が協力したというだけの話なんですが、一人で悩んで書けなくなるくらいなら、全然他の作家を呼んで力を借りていいんだと思います。そのために公演中止にしたり脚本が初日に上がったり、そういうことはばかげているように思います。

今回は思わぬ形でのコラボレーションだったけど、それゆえに出来上がった作品だと思うし、それぞれで書いていたら出来上がらなかった類の作品だと思うし、僕がそういう形で関わったことは英断だったと僕は思います。

もちろん、一人でやった方がいい場合もあります。そのやり方に対するそれぞれの作家の向き不向きも当然あります。それでも、困ったらとりあえず試してみたらいいと思います。この人とはうまくいったけどあの人とはうまくいかなかった、ということもあると思います。例えばそれは演出助手という形の関わり方かもしれないし、ドラマトゥルクという関わり方かもしれないし、共同執筆という形かもしれない。形はなんでもいい。でも、書けずに誰かに迷惑かけるならその前に頼れ、と言いたいです。これは自分に対しても。僕だって書けなくなる時は必ずあると思うので。

新国立劇場の脚本家ワークショップも同じような考えの元に進んでいるのですが、そういう場じゃなくても、近しい友達とか一緒に仕事したことがある人とか、作家同士のそういう緩い繋がりがもっと演劇界にあればいいなあと思います。

また、俳優もこういうことを提案していいと思うし、俳優が助けになってもいいと思います。「書き上がるのを信頼して待つ」と言えばそれは美談のようにも映るのですが、甘ったるい思考停止ではないか、かえって作家を孤独にしてはいないか、考えてみてもいいのではないでしょうか。

○今までに何回死んだかということ。

今までに何回死んだか、ということを考える。

日本に生まれていなければ死んでいたかもしれない。
両親の元に生まれていなければ死んでいたかもしれない。
赤ん坊の頃海に突っ込んでいった時に死んでいたかもしれない。
鉄のブランコが後頭部を直撃した時に死んでいたかもしれない。
小学校の校庭で先輩とぶつかった時に死んでいたかもしれない。
中学校の時に担任が嫌い過ぎて死んでいたかもしれない。
高校の文化祭で張り切り過ぎて過労で死んでいたかもしれない。
好きな人にフラれた悲しみで死んでいたかもしれない。
飲み過ぎて死んでいたかもしれない。
謎の腎臓炎で死んでいたかもしれない。
主演のプレッシャーで声が出なくなって死んでいたかもしれない。
タクシーに轢かれて死んでいたかもしれない。
三月十一日に死んでいたかもしれない。
友達の後を追って死んでいたかもしれない。
暇過ぎて腐って死んでいたかもしれない。
眠れな過ぎて死んでいたかもしれない。
忙し過ぎて死んでいたかもしれない。
精巣腫瘍が悪性だったら死んでいたかもしれない。

明日不意に死ぬかもしれない。

今まで僕は生かされてきたのかもしれない。

なぜなのか。

意味はなくとも、意味を探すためなのかもしれない。
まだ死ねないのかもしれない。
いつ死んでもいいのかもしれない。

後に何かが残るのかもしれない。
残らないのかもしれない。

死んでいたかもしれない自分を置き去りにして
生きるしかないのかもしれない。

○過程を愛すること。

最近の傾向として、どんどん、結果に興味がなくなってきている自分がいる。過程ばかりが楽しい。結果を得るために頑張れなくなってきている。どうでもいいとさえ思っている。至る道の美しさを望んでいる。どれだけの苦しみを経たかを考えている。その苦しみの喜びを考えている。

いつか理想が消えて、ただ歩く道のことだけを追い求め始めた時、自分が一体どうなっているのか。目標を持つことも追うこともやめて、誰かの背中を眺めることもやめて、足元に大地があることや、自分の足が確かに土を踏んでいることや、その足が前に向かって伸びていることや、そういったことにだけ気持ちを向かわせることができたら、どれだけの不要な妬みや嫉みが消え去るのか。

自分にできることを粛々と続けることの難しさを思う。いつか嘘をつかずに済むようになる時のことを思う。過程を愛することを思う。

「ということ」シリーズもア行が終わり、次からはカ行に入ります。
今更ですけどブログのタイトルの話。五十音が終わる日はいつなのか見当もつかないが、つらつら書いていきます。

Previously