廃墟にて。


お久しぶりの須貝です。

なんだかポーっとしたまんま日々を過ごしていたら、三日ほど時間が空いてしまいました。

さて、最近自分の中でちょっとした発見というか流行りというか、とにかくそんなものがあるんですけど、それは廃墟を見ること。いや、正確には廃墟を探しに行ったりはしないので、日常街でたまたま見つけた廃墟に心奪われたりするのがまぁ、流行りというか。それって流行りって言うのか?

意外と廃墟にときめくんだということを発見したんですね。そういう人って最近は多いらしくて、廃墟巡りのツアーがあったり、イギリスでは特に心霊スポットになっている廃墟を見に行ったりなんてものがあったりするらしいですね、確か。

上京した頃は気付かなかったのですが(最近特に多いのかもしれませんけど)、東京というのはとにかく建物がよく立て替えられます。テナントの出入りが激しいっていうのは別の話で、古い建物がよく壊されて新しい建物になっている場面も常に街中で見かけるなぁと。

そう、東京は次々と新しい物が生まれていく場所ですが、それは同時に廃墟が日々生まれていっているということなのです。

去年の暮れに僕の家の近所の銭湯がその営業を終えました。僕は銭湯が結構好きでそこにもよく行ってたんですけど、バイト先に行くのにその前を必ず通るんですね。だからその銭湯が取り壊されていく様をほぼ毎日見ていたわけで。

取り壊し方にも色々方法があるんだと思うんですけど、どうやらああいうのって中から取り壊していくんですね。外からガーンと一気に壊していくもんかとも思っていたんですけど、その銭湯も暫く外見は何ともなかったんです。それがある日突然廃墟になってしまいました。

中から壊していっていたのを、壊し終わったから今度は外を壊して、それで一気に廃墟になったのです。たった一日にして、見知った建物が別の物に生まれ変わってしまいました。

それを見て呆然として思ったこと、何かを生み出すためにはもちろん膨大なエネルギーが必要なんだけど、何かを壊すのにも膨大なエネルギーと時間が必要なんだということ。なぜそう感じたか、その事実自体は大して物珍しいことでもないのかもしれないんですけど、なぜかそう感じて思わず立ち止まってしまったのでした。

だから廃墟を見ていると何かそのエネルギーの残滓とでもいうか、まだ何かあるぞ、これから何か起こるぞと思わせる高揚感とでもいうか、そんなものを感じさせておきながらなくなる時は一気になくなって後はまっさらな土地が残り、さらには数ヵ月後に別の建物がそこにはあって、一年もするとそこに何があったのかさえ忘れてしまう。

日本というのは元々地震や台風、飢饉に水害、噴火もあった土地柄ですから、壊れやすい替わりにすぐに立てられるような住宅が多かったんだそうです。江戸で大火事があればそれこそ何万戸という家々が、何万人という人の命が失われたわけですが、それでも三百年、さらにはその後も首都として機能し続けたのが今の東京なわけです。絶対に壊れないものは作らずに、壊れてもすぐに作れるものを考えたというのが日本人らしいですね。

明暦の大火では江戸城の天守も燃え落ちてますから、それを考えると逆に強かな首都です。ヨーロッパではレンガやなんかでガンッガンの強固な建物を作りますが、この辺りは思想と場所の違いか。

だから「廃墟」って元々日本に無かったのかもしれません。城跡や武家屋敷なんかは廃墟になり得たかもしれないですけど。
今はもう西洋式の建築が日本には溢れていますが、技術も進んでそれらの建物が地震やその他の災害に強くなっていったのに、人工的な廃墟はどんどん生まれていきます。

しかし今では何かが壊れていくのも建てられていくのもとても早い。半年以内にその一連が済んでしまうことなんて、至って普通です。それはそれで寂しいなぁと。朽ちていくことにすら、情趣がなくなってはいやしまいかと。

廃墟の写真を撮ってる人は多いらしいですけど、僕もやってみようかなと思っている今日この頃です。

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