実は感動している。


どうも、須貝です。

本や絵画、音楽や映画、演劇、その他あらゆる芸術的活動と呼ばれるようなものたちと、僕らは日常生活でよく触れていますよね。

いちいち美術館やコンサートホールに行かなくても、今は街やテレビやその他あらゆる場面に情報が、つまりそういった“作品”が溢れている気がします。
それら数千、数万、数億、数百億の作品たちの中でもさらに、人の心を動かす名作と言われるものたちがあって、そういったものは全作品の内のごく僅かです。

名作が数多くあっては名作とはならないのかもしれませんが、とにかく、凡百の作品たちとこれらを分かつものって一体何なんでしょう?

時に個人的な感想になってしまうかもしれませんが、それはもちろん人の心を動かすということ、さらには多数決に似たような要素も含まれるのかもしれません。一般的に名作と認められなければ名作とはなれないのは、数十億の人間が暮らす地球ですから、仕方のないことです。

では一般的に認められるというタガを外してやって、「純粋に心が動くもの」、それを名作と呼ぶ時、私たちが心動かされるものたちには、恐らく一つの共通点があると思ったのでした。

私たちが心動かされるものに必ず内在しているものというか、条件のようなものがたぶんあって、それは論理的にそう考えたことがあるわけではないのですが、何となく感じたことで、それは、「作者が既に感動している」ということなのかなと思いました。

一つには題材を選ぶ時。絵画なり小説なり、なぜそれを選んだかと言えば、それを目にして耳にして、作者が感動したからでしょう。そうでなければそれを表現しようなんて思うわけはありませんから、それは当然のことです。

それもありながら僕が言いたいことというのは、そうではなくて、どこかその作品を手がけている時に、「あぁ、こいつ感動しちゃってたんだろうな、どっか突き抜けちゃってたんだろうな」と思わせるような状態にあったというか、まず作者がもう感動しちゃってて、自分以外の何かから力をもらっているかのようにその人以上が引き出されている、そんな状態で作られた物ってきっと僕らの心も動かすんじゃないかなと思うのです。

よい役者さんを観ていると、この人やべーなと思うくらいなんかもうトランス状態一歩手前くらいにぶっ飛んじゃっているんですが、その反面暴走はしていないというか、ちゃんと自分を律している所があるような気がして、もちろんそういうのはお芝居みたいにリアルタイムで目前に展開されていたら一番分かりやすいのですが、映画やドラマでもそう思う瞬間があって。それは絵画や音楽でもそうで。

前に、自然の脅威を観ていると神様を感じるとここで書いたと思いますが、僕は小説や絵画に触れる時も、神様を感じるんです。なんて言うか、「人間が人間を越えちゃってる」状態?それって人間以上なわけで、それって理解を超えた所にあって、それが神様を前にしたような敬虔な気持ちに自分をさせて。

物凄い嵐が地上三百階くらいの高さから下を眺めることだとすると、感動する絵画や小説が三階建ての建物の屋上から下を眺めることのような、あまり高すぎるよりも実感が湧くくらいの高さの方が怖さをより一層感じるというのと同じで、そういうものに対しての方が、僕はより神様を感じるんです。神様って人間が作り出した物の中にも潜んでいるのではないかと。

何はともあれ、誰が書いたとか描いたとか演奏したとか、ネームバリューにばかり捉われないで、本当に自分が心動く物を尊敬して生きていきたいと思います。

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