今、読んでいる本。

どうも、須貝です。

今、ある着想を得て、ストーカー事件のことを調べています。

働いている図書館でその事件に関する本を見かけたということもありましたが、そう考えた時に真っ先に思いついたのは桶川の女子大生ストーカー殺人事件でした。

1999年、当時21歳だった猪野詩織さんが、白昼の桶川駅前で殺害されます。当初は通り魔殺人かと思われていましたが、後に凄惨なストーカー被害があったことが判明しました。今から八年前、僕はまだ十四歳でした。

この事件と直接結び付けることが出来るわけではもちろんありませんが、神戸の児童連続殺傷事件の記憶がまだ新しい頃でした。また、下関や池袋での事件に代表される凄惨な通り魔事件が各地で頻発していた頃のことです。

しかしこの事件は全くこれらとは一線を画した別の事件であり、神戸の事件と同じく、世論に衝撃を与えました。ストーカー被害、そしてそれが引き起こした悲惨な事件。

僕は、先程も言った通り図書館である本と出会いました。鳥越俊太郎さんと取材班が共著した『桶川女子大生ストーカー殺人事件』という本です。後輩に頼んで借りてもらい、今もまだ読んでいる途中です。読み進める内に、自分の中で沸々と、怒り、口惜しさ、そんな感情がたぎっていくのを感じています。

この本を手に取ってその冒頭を読んだ時、驚きました。ちょうど彼女が亡くなったのが10月26日、つまり今日だったことを知ったのです。何か天啓のようなものを感じました。

この事件の一つの側面、それは警察との闘いです。ストーカー行為は半年以上に及んでいたにも関わらず、詩織さんとご両親が被害を訴えていた埼玉県警上尾署は何もしませんでした。本当に何も。事件後にはそれらの事実を揉み消そうとすらし、遺族を圧迫するような行為にも及んでいます。

呆れるのを通り越して、恐怖します。もしも自分が同じ立場に追いやられたら、自分の大切な人がそんな目に遭ったとしたら、自分には一体その時、何が出来て、誰を信用すればいいのだろう、と。

もう一つは報道被害です。警察発表の曖昧さも一つの要素となった感はありますが、あらゆるメディアが詩織さんに関して、「ブランド好きの女子大生」、「犯人に殺される要因を自らで作り出していた」といったような方向性で報道を行っていたようです。当時のことはあまりよく覚えていませんが、確かにそういった傾向はあったように思います。

視聴率、雑誌の売り上げ、そういった事柄のために、面白おかしく興味を惹くように歪められた彼女の実像は、それとは程遠いものでした。

怨恨による通り魔事件、男女の関係のもつれ、そんな風にして収束しかけていた事件だったのです。鳥越さん自身、清水潔さんという記者が書いた「フォーカス」の記事を読んで初めて、この事件を調査することを決めたそうです。

清水さんもこの事件に関して、『遺言~桶川ストーカー殺人事件の深層~』という本を書いてらっしゃいます。この本はまだ読んでいませんが、一緒に借りてきてもらったので併せて読むつもりでいます。

本を読み進めれば読み進めるほど、ただただ「恐ろしい」という感情が渦巻いてきます。警察の腐敗…これじゃあ戦時中と変わらないじゃないか、一体これが法治国家だの先進国だのと堂々と言い放っている国の有様かと、恐ろしくて仕方がありません。

誰が何を聞いても、知らない、調査中である、誠に遺憾です、そんな発言しか出て来ない。これでは繊細で美しいはずの日本語の微細な表現が、ただ悪用されているだけのような気がしてなりません。

僕は、このブログを書く上で、人の批判や中傷はしないということを決まり事にしています。批判はしても、悪意からの無責任な批判はしないようにと思っています。
物事の側面というものは、一つではないと思います。だから一面のみを見て物事を考えるのは、非常に危険だと思うのです。

その場の興味を惹くために軽はずみな断定を下すのは恐ろしいことだと思いますし、その影響力が大きければ大きいほど(例えばテレビのような)、人の人生は狂うものだと思っています。僕の書くものなど大して読まれてはいないだろう、といったような甘えは、それが事実であれ通用しないものと思っています。その意識がやがて巡り巡って、人の人生や自分の人生を狂わすものになり得ると考えているからです。

まとまらない文章ですいません、自分でもまだ整理しきれていない感情があります。しかしとりあえずここで言いたいのは、「警察が悪い、信用できない」とか「政府には絶望した、何もしてくれない」とか思っているだけではなくて、「じゃあどうするか、どうしていくか」ということが本当は大事なんじゃないかと、思うのです。

皆いい大人なんだから、「誰かが何とかしてくれる、自分が文句を言えば誰かがきっと聞いてくれて、何かが変わる」なんて考え方をやめて、「警察が悪い」と思うのであれば一体何が悪くてどうすべきで、どうすれば治安を維持する機関として機能するのか、僕らも考えるべきだと思うのです。

鳥越さんも清水さんも詩織さんのご遺族も、この事件を糾弾した報道番組や記事に関わった人たちは、自分の仕事を通してにしろ、ちゃんと変えようとして、事実変わったのだと思うのです。だから、尊敬すべきです。

長くなりましたが、僕は自分が書くものやすることで世界を変えたい。到底無理かもしれません。力も足りないでしょう。でもそこに向かう姿勢がなければ、自分が今していることには何の意味もない気がして怖いのです。

本当に長くなりました。読みにくくてすいません。皆さんにも鳥越さんたちの本を読んで欲しくて書き始めた文章だったはずなのに、趣旨が変わってしまいました。

最近よく、知らないということがいかに恐ろしいことか、そして知らずに論ずるということがいかに危険か、そんなことを考えます。何かを作るには、書くには、もっと責任が付きまとうべきなのだと、自分に言い聞かせるいい機会になりました。

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