飽きる動物。


どうも、須貝です。

突然ですけど、「慣れる」ということと文化は大きく関係があると思います。

人は少しずつ、人間の歴史をかけて少しずつ慣れてきたのだとふと思いました。とりあえず映像に関しては、技術の進歩と共に出来ることの範囲が広がってきたわけですが、人間の慣れ、もしくは麻痺のような状態に合わせるように技術も進歩して、その技術に人間も慣れていって、さらに技術が開発されて。

例えばフルCGアニメ、僕は苦手だったんですが、段々慣れてくると大して気にならなくなりました。恐らく技術も進歩して段々と気にならなくなるようにしてきてはいるのだと思うんですが。

お話に関しても、いつまでも同じ話の筋だと飽きてしまうので、ではこんな風にしよう、あんな風にしようと創意工夫がどんどん枝分かれていきます。
『水戸黄門』のような勧善懲悪に飽きると、今度は悪が生き残るバッドエンディングの物語が生まれたり、善も悪も区別が曖昧な『ガンダム』のような物語が生まれたり。

ライダーシリーズや戦隊ものなんか、手を変え品を変え、マンネリを打破しようと大変です。その結果明らかに失敗してしまったりするわけですが、成功する場合もあります。

なぜこんな当たり前のことを今さら考えたかと言いますと、「慣れる」ということは動物にももちろんあるわけですが(環境に慣れたり仲間に慣れたり)、「飽きる」ってのは、動物にもあるんだろうか、もしかして人間にしかないんではないだろうかと考えたからであります。

ちょっと考えてみても、何かに「飽きて」いる動物の姿ってあんまり見ませんよね?動物園や水族館のような場所で、お客さん相手に愛想を振り撒くのに疲れている動物は見たことがあるような気がしますが、それって飽きるのとはまた違う気がします。

これまた一世を風靡したレッサーパンダの風太くん、いますよね?彼が立つのに飽きたからって逆立ちを始めたりバック転に挑戦しようとしたりって、たぶんしませんよね(出来るできないは置いておいて)?

文化って、飽きることなのかもしれない、とかなんとかデカいことを思ってみたりしました。いや、違うな。どうも色々あやふやです。

まぁ、いくら飽きたからといって急激な変化は大衆に拒絶されます。だから時代に即した流れの中で、人々が慣れたものに対して反旗を翻す異端児、天才のような人々が、これまた新しい文化を作っていきます。

例えば、『マトリックス』は一世を風靡したアクション映画ですけど、もしこれが五十年前に出来ていても、拒絶されると思うのです。いや、当たり前ですけどね。『第三の男』の時代に『マトリックス』が同時公開されていたら…。

それに慣れ、飽きた人々の目の前に、再び天才が現れます。そして新しい文化が生まれて、という繰り返しで、今があるんだと思います。

「夕陽が眩しい砂浜で追いかけっこするカップル」って構図が、ギャグではなく物語として成立していた時代が確かにあったわけです。人々がそれに慣れて飽きた頃に、それをパロディにする人が現れて、この構図の意味合いがガラッと変わってきて、いわゆる「クサい」ってことになって。

『世界の中心で愛を叫ぶ』や『タイタニック』のあのシーンで、当時多くの人が泣いたのは事実な訳です(僕はリアルタイムでは両方見ていないし、未だにどちらも一本通して観たことがありませんけど)。でもそのどちらもパロディにされ、さらにそのパロディでさえ既に飽きられています。

もしヒトが慣れない動物で、他の動物と同じように飽きない動物だったら、やっぱり文化は多様化していかないわけです。

こんなことを考えていても何の足しにもなりませんけど。

様々な情報が飛び交って、飽きることなく新しいものが生まれていって、それに常に接することが出来て、という今の世の中。
飽きることはなくなりましたが、アカデミズムという大きな権力に立ち向かう形で生まれた印象派のように、傑出した天才たちがいなくなっていきはしまいかと、大きなムーヴメントのようなものはもう生まれないのではないかと心配になります。パンクロックやヒッピーのような大きな流れって、もう生まれないのではないかと。それとこれはまた違う問題かもしれませんけど。

でもそんなことに関係なく、才能って枯れずに輩出され続けるものなんですね。しかしそれに安心してばかりもいられません。

なんだか全然論がまとまってません。ごめんなさい。しかし、こんなこと心配する以前に心配することがもっとたくさんあるよな、俺。

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