どこにもいない隣人~北新宿四丁目のばあさん編~


北新宿四丁目の商店街の並び、その中に一軒の細長い家があって、その玄関口にばあさんはいつも立っている。時間帯にして22時半、大体その時間にそこを通れば、ばあさんがいつも少し薄着で立っている。

早稲田から東中野へ自転車で帰る。諏訪通りを抜けて人形町へ出て、北新宿四丁目商店会という看板の見える幅広の道路を走る。寂れていはいるが、人通りはポツポツと途絶えることはない。そこを抜ければ、まさにその商店会の人々によって建設を反対され続けていた、二つの大きなマンションの足元に飛び出る。そこまで来るともう東中野の駅に続く線路が見えてくる。

誰に聞いた話だったかほとんど忘れてしまったが、北新宿のその辺りには、水商売や風俗関係、AV女優といった女性たちがわりと多く住んでいるのだそうだ。真偽の程は定かではないが、ばあさんが立っている北新宿という場所は、どことなく薄暗い印象を抱かせる場所なのである。

くすんだ外壁が少々剥げかけたその家の、雨ざらしにされて茶色の溶けた薄い木戸の陰に隠れるように、ばあさんはいつも立っている。一体なぜそこに立っているのか、分からない。どこかへ行く途中ではない。何かを待っているのかもしれないが、何を待っているのだろうかといつも訝る。自転車で駆ける僕と、必ず目が合う。それが非常に薄気味悪い。

ばあさんはまるで立ち止まった彫像のようだ。不器用に石膏で練った、動くことのない物体。ばあさんの薄気味悪さがそのまま、東京という街の不可解さを象徴しているような気さえする。

深夜の電話ボックスで長話に興じる中国人の女、カフェのアルバイト店員に絡むことでしか憂さを晴らすことの出来ない湿ったサラリーマン、真っ黒な肌をしたホームレス、壁に向かってひたすら話し掛ける知恵の遅れた青年、幼い子供たち、怒りに満ちたタクシーとその運転手たち、それが、北新宿だと思うことがある。

ばあさんは、東京という乾いたアスファルトに根を張った、原種の人間である気がした。

ばあさんが何を待っているにしろ、それが何か分かることは、この先決してない気がする。そしてばあさんが待っているであろうものも、この先永遠にばあさんの元へ来ることはない気がする。

今日もばあさんは立っていた。ばあさんがいて、サングラスを掛けた豹柄コートの女がいて、自転車で駆け抜ける僕がいる。そんな世界で、相互理解や世界平和を説くことが、もしかすると無駄なことなんではないかとふと思った。少し悲しい気持ちになって、「自分しか愛せないくせに人に愛されるわけがない」と昔人に言われた言葉を、ほとんど事故のように突然思い出した。

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