幸せ、もしくはそうじゃない状態の呼び名・2


 私が実際にその人に会うということを決意して母にそう告げると、母はすぐにその人に連絡を取って、私たちが会う段取りを取ってくれた。父はやっぱりずっとむっつりしていて、夕食の間も一言も口を利かなかった。

「お父さんはもう今さらどうすることもない、って言うんだけどね、初美に言わないのはやっぱり不公平だと思って。不公平って、別に公平も何もあるわけじゃないんだけどさ。それだってお母さんの自己満足かもしれないけど、どうしても言っておかなきゃいけない気がして」
「うん」
 夕食が終わって父が書斎に早々に引き篭ってしまった後、二人で食器を片付けながら、母はそんなことを少しずつ話してくれた。
「状況としてはね、何も変わることはないの。例えばあなたが本当のお母さんと暮らしたいって思ってもそれは法的にもう出来ない状態だし、私もお父さんもずっとあなたを私たちの子供として育てていくつもりだしね。でも初美がそのことすらも知らないのはやっぱり…騙してるみたいでね、嫌だなあって思ったの」
「うん、分かってる。言ってもらってよかったって思ってるよ」
 母は蛇口をひねって水を止めた。私は泡の付いたままの両手をじっと見つめていた。永遠に続いたら息が切れてしまう、そんな沈黙。
「ごめんね」
 私は母の腰にそっと右手をやって、母の細い肩に頭を預けた。温かい。母の髪の温度と匂いが仄かに伝わってくる。
「大丈夫だからね」
 私は一言だけ、そう伝えた。

 その日はしとしとと梅雨の雨が降っていた。これから少なくとも一ヶ月は続く一年で一番嫌いな季節のことを思うと、これから起こるだろうことに対する不安よりずっと憂鬱な気持ちになって嫌だった。いや、それは嘘だ…これから起こることに対することへの不安の方がやっぱりずっと大きい。
 駅前から大きく伸びる通りとは反対の方向に伸びる細い小さな通りを暫く歩くと、小さな商店が並ぶ少々寂れた雰囲気の中に、その喫茶店も息を潜めるように、身を隠すようにひっそりとあった。名前は、「純喫茶『幸せの青い鳥』」。薄ぼやけた白い灯りを発する、雨風に晒されてすっかり汚くなってしまった看板が店の前に置いてある。えんじ色の文字も、元は鮮やかな赤だったのかもしれない。私は店の中に入った。ドアを開いてベルをチリンと小さく鳴らすことすら恥ずかしく思われる、そんな店内だ。こんななりでよくもまあ、「幸せの青い鳥」なんていけしゃあしゃあと語れたもんだ。何ヶ月いようが幸せなど訪れそうもない。

 店の奥の深く沈み込み過ぎる不快な一人掛けのソファに座ると、私はコーヒーを注文した。テーブルが油と脂と煙草の脂(やに)でべとついている。大き過ぎるテレビの音を聞きながら、手にしたずいぶん前の雑誌を読む気にもならず、私はその人が来るのをただ待っていた。
 待ち合わせの時間が十分過ぎたのは本当にあっという間だったが、十分過ぎたと知ってから先の十分は、待ち遠しいなんて気持ちではなくて、今まで体験したことのない緊張感で息が詰まりそうだった。そこからさらに先の十分は、来ないならこのまま来ないで欲しい、それはそれで土産話にはなる、みすぼらしい喫茶店と濃すぎるコーヒーのために電車に乗って三十分の駅まで来て、そこからさらに三十分待っても誰も来なかった、そうだ、土産話にしてしまえる、いっそのことそうなってしまえばいい、そんなことばかり考えていた。

 その人は、さもこの店に来慣れているかのようにドアを開けた。実際にそうなのかもしれない。だから最初はただの客のように思って、もしかしたらあの人かもしれないともなぜか思わずに見過ごしていた。それに、その人は店内を見回して人を探すような素振りも(確かに店内には私の他に客は一人しかいなかったからかもしれないけど)、遅れてきて申し訳ないという急ぐ様子もなく、本当に普段の様にコーヒーを飲みに来たような、私のテーブルに近づいて来る時でさえ、隣のテーブルに座るつもりででもいるかのような様子だった。

「あなた?」
「え?」

 突然聞かれると分からないものだ。その人は普通の人だった。思っていたよりも少し若くて、思っていたよりもずっと地味だった。朝や夕方のラッシュ時に道を急ぐような、生活に疲れた色を隠しきれない年齢に差し掛かった女性の持つ匂い、一度は道で会っているんじゃないだろうかと思うくらいの地味さで、濃い茶色の落ち着いたスーツを着てはいたが、決してキャリアウーマンといったイメージではなく、長い年月埃にまみれた薄ら寒い部屋で事務仕事にでも携わってきたという感じ。会う前からずっと自分の本当の母の姿を勝手にあれこれ思い描いていた私は、少し意外な気がして、そして同時に胸の奥の方である感情が湧き上がってくるのをどうしても感じずにはいられなかった。

「あなたよね?」
 その人はもう一度同じ質問を繰り返した。
「あ、はい、そうです」
「そう」
 ずっと聞きたいことがあった。どうして、なぜ、いつ、誰が、どこで、今は一体…そんなことばかり心の中でずっと準備してきていた。そうやってずっと準備してきていた質問が次々と浮かび上がってきたが、それが心の中で膨らむ度に、実際に口に出してそれを聞く勇気は空気を抜かれた風船のようにしぼんでいく。私の気持ち自体も、そうやって空気が抜けていく度に力を奪われていくような(水が蒸発する時についでに熱を奪っていくように)、とにかく上手く言えないけど、もう早くこの場から逃げ出したいという気持ちを口に出来ないストレスに身が裂かれそうな思いだった。

~つづく~

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