幸せ、もしくはそうじゃない状態の呼び名・3


 その人はコーヒーを早口に注文してから、自分の名前を私に告げた。私は聞かれなかったから名前を言わなかった。果たしてこの人は私の名前なんて覚えているのだろうか?

 暫く、どちらが話を切り出すということもなく、十数分が無言のままに過ぎた。じっと下を向いて腕時計を見つめていると、スッと冷たい汗が腋の下を落ちていった。気持ちが悪い。その人は静かに煙草を一本取り出すと、ライターで火を点けて軽く一口吸い、隣のテーブルから灰皿を一つ持ってきた。カタンと小さな音を立ててテーブルに置かれる灰皿。琥珀色のありふれたそれが、とても純粋な物体に思えた。

 その人は、特に何かを得るためにここに来たのではないかのように(実際得るものなど何もないと決めてここに来ていたのかも知れず)、その沈黙が、彼女が二本の煙草を吸い終わるまで続いても苛立つ様子もなく、ただ喫茶店のガラス窓にしとしとと降りかかる雨を眺めていた。それでも、吸い終わった二本目の煙草をギュッと慎重に、念入りに灰皿に押し潰した彼女は、私に何らかの感情を抱いているかのように振る舞おうとしたいらしかった。

「今のあなたはどうしてるの?もう…大学生?…それとも何か私に聞きたいことは?なぜ…」
 なぜ私を養子に出したか?是非聞きたい。あなたが是非とも話したいと思うのなら。私はアメリカ人のオーバーリアクションを思い出していた。大きな感情表現、身振り、私はあなたのことに興味津々なのよ、あなたに私の感情を知って欲しいわ、私が今どう思っているかを、私の崇高で貴重な意見を愚か者のあなたに教えてあげようって言ってるのよ、なんてね。もう随分な時間、脈絡のないことばかり考えている。

「…元々、聞かれなくてもそれについては話すつもりでいた。あなたももう分かる頃だと思う。次に会うのがいつになるか分からないしね」
「…でも」
「もちろん、あなたが会いたいと思えばいつだって時間を作るけど。でもきっとあなたのお父さんもお母さんもよく思わないと思う」

 『あなたのお母さん』。

「これは私の勝手だけど、聞いて欲しくて」
 その人はそう言って半ば強引に話し始めた。彼女の過去、私の本当の父との出会い、私の誕生、私の本当の父の死、遠い親戚に当たる今の父と母に幼い私を預け、そして十八年間も会わなかったことを。

「色々なことがあって…今はずっと減らしたけどお酒も飲んでたし体も壊して。仕事も忙しかったし」
 その人はそう言った。そう言って今度は堰を切ったように次々と話し始めた。同じ内容のことばかり何度も何度も、違う表現で演出された同じ言葉を語り続けた。

 言ってしまえばいいのに。どう愛せばいいか分からなかった、うまく扱えなかった、自分のものだと思えなかった、面倒になった、親の責任なんて放棄したいと思った、さっさと逃げ出したいと思った、誰かに押し付けられることなら押し付けてしまいたかった、私は九ヶ月かけてもあなたに愛着を持てなかった、などなど、言われたって今さら傷付きゃしない。ただ、あぁそうかと思うだけ、それだけだ。だって、上手に人を愛せる人なんて、上手に人に愛される人なんて、上手に愛し合える人たちなんて、この世には稀にしかいないのに。誰もその時のあなたを、今のあなたを責めたりしないのに。当事者の私でさえ、あなたのことを理解できなくても、十分に同情は出来るから。よっぽどそう言ってあげようかと思ったけど、癪だからやめた。

 その人は一息吐いて時計を見た。

「もう行かなきゃ」
 その人はもし何かあればと言って名刺を一枚置いていった。どこかすっきりした表情をして、そのまま去ろうとした。

「あの」
「なに?」
「一つ聞きたいことを思い出して」
「うん」
「私が生まれた時に撮った写真って、ありますよね?」
「ええ、たぶん家にあると思う」
「それ、思い出した時でもいいので送っていただけますか?」

 そうすればもう私はきっと、あなたにこれ以上干渉しない。

「一枚しかないから…」
「はい」
「でもあなたが必要なら。きっと送る。後で必ず送るから」

 その人はそう言い残すと、来た時と同じように何の造作もなく帰って行った。結局三十分にも満たない時間しか話さなかったが、長い長い時間が過ぎたような気がして、体中から強張りが出て行くと、一気に体が震えるようになって、悲しみからではない涙が目の縁に溢れた。そのまま放って置いたら、後から後から涙が溢れてきて止まらなくなった。気が付くと私は、あの人が置いて行った名刺を固く固く握り締めていた。

~つづく~

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