極めて短編集(2)


○父と二人で。

六月の梅雨の真っ只中の、そのちょっとした晴れ間に、父と私の新しい関係が始まった。

父が自転車を漕ぎ、その後ろに私が乗る。そうやって二人して、三十五分かけて職場に行く。父は私を降ろして、そこからさらに五分行った所にある自分の職場に行くのだが、その三十五分の新しい関係が、未だに少し刺激的だ。

その間、私たちはポツリポツリとしか話さない。元々仲の良い親子だと思うんだけど、話さない。父は自転車の運転に集中しているし、私は私で道行く人をぼんやり眺めたり、風景に目をやったりしている。お互いがお互いに安心しているから、その沈黙も別に気まずくはない。

父と母が別々に暮らし始めて、そろそろ二ヶ月が経とうとしている。私は父の元に残ったけど、父はやっぱり少し不機嫌で、少し元気がなくなった。私がご飯を作るようになったけど、もそもそといかにも不味そうに食べる。母からは、たまにしか連絡がない。

夏も本格的になり始めた八月に、私は私の恋人を父に紹介した。彼女を実家に連れて行って、父と私の三人で夕飯を食べた。彼女は私なんかよりずっと料理が上手だから、父も久しぶりに楽しそうにしていたけど、彼女のことをただの友達だと思っていたらしくて、私が彼女のことを「お付き合いしています」と紹介したら、最初怪訝な顔をして、暫く後に驚いた。

ただ一言、「そうなんですか」と呟いて、後は二人で自転車に乗っている時みたいに、ポツリポツリと話すだけになった。三人の空気は気まずくなったけど、予想はしていたから私も彼女も大丈夫だった。父のことだけが心配になった。

その後二日くらい私と父はほとんど話さなくて、三日目の夜に私は、「孫が出来ないのは嫌?」と父に聞いてみた。凄く嫌な気持ちだった。
父は、「寂しいけど、強制は出来ない」と言って、また黙り込んでしまった。私は、決してウソを吐かない父のことを、とても愛おしく思った。

東京は十二月になっても雪が降らない。衣服の隙間から忍び込んでくる冷たい風は耐え難いけど、二人で目一杯厚着して、私たちは三十五分の新しい関係を続けていた。母は結局別の男性と再婚することが決まって、父の背中はいよいよ寂しく小さくなったけど、そんなこじんまりした父を段々可愛く思い始めていた私には、この三十五分が一日の内で最も楽しい時間になった。

父は時々、「あの人とはうまくいっているのか?」と聞いてくれた。本当はもう、色々あって別れてしまっていたんだけど、私はウソを吐いて、「うん」といつも応えた。父もそれ以上は聞かなかった。

二人のこの時間は、何があっても変わらなくて、それが単純だけどとても素敵なことのような気がして、私たち二人は、何があっても変わることのない二人の関係を楽しんだ。

年末の休みに入る頃に、父は重たい風邪を引いて、少し入院した。その時の検査で癌であることが分かって、今度は私が父を病院まで、自転車の後ろに乗せて連れて行くことになった。誰が運転するかが変わっただけで、私たちにとっては大した問題じゃなかった。

荷台にちょこんと腰掛ける父の体重は、どんどん軽くなっていく。毎日泣きそうになった。
「このまま軽くなり続けてくれたら、病院まで行くのもどんどん楽になるわよぉ」と私が言ったら、父はちょっと笑った。

私たちは、充分幸せだと思った。

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