極めて短編集(5)


○硝子病者の家

病人のいる家には独特の静けさがある。足を踏み入れた瞬間、死が纏わり付くような、そんな静けさだ。人がいるはずなのに、そこに鼓動がない。

その家に病人がいることは確かだった。その静けさがあったからである。ぎしりと不快に軋む階段を三段ほど上って、私はその家のドアの前に立った。呼び鈴を鳴らして待つ。ドアを開けて現れたのは、黒い服に身を包んだ痩身の女だった。

女は三十歳くらいに見えたが表情に生気が無く、四十歳と言われても信じただろうし、五十歳と言われても信じたかもしれなかった。青白い肌に、黒く長い髪がさらに影を落とす。しかし、今日私が診る患者は彼女ではない。

「私たちの一族の者全てが、皆この同じ病で命を落としています」

女はそう切り出すと、私に一枚の写真を差し出した。

「これが私の家族です。祖母と父は既にこの病気で亡くなりました」
「これはお母様ですね?この方とこの方は?」

私が聞くと、女はこう答えた。

「私の兄です。今日診察して頂きたいのは、母とこの二人の兄です。今は四人でこの家に暮らしているんです」

女はそう言ったが、その家に私と女の他、人の姿は無かった。どこかに人がいる気配がするだけで、家の中からは物音一つ聞こえて来ない。

「三人はどこに?」

私が聞くと、

「分かりません。でもこの家のどこかにはいるはずです」

女は確かにそう言った。

「分からないってそんなバカな、どこにいるか分からなかったら診察なんて出来ない。それに第一病気なんでしょう?そんな自由に動き回れるはずもない」
「その通りです。自由に動き回ることなんて出来ない。だからこの家にいることは分かるんですが、でも私にもどこにいるか分からないんです」

私は、なんだか寒気がした。女が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。

「無理もありません、すみませんでした。まずはこの病について説明しなくては」

女はそう言うと、長いスカートの裾をめくって私に足を見せた。いや、足があるはずの場所を。そこには足があるはずだった。しかし、何も無い。膝の下から先が、そっくりそのままどこにも無いのである。膝が薄っすらと擦りガラスのように透けていて、その先の足が無いのである。

「これがこの病気の初期症状です。透けるんです。母と一番上の兄は私のように足から先に透けていきました。二番目の兄は手から。こうやって透けていって、最後には全くの透明になるんです」

私には、今自分の目の前で起こっていることが全く信じられなかった。女の足(があるはずの場所)に触れてみる。確かに何かがある感触はあるが、それは人の皮膚の感触ではない。冷たい。ガラスのように硬いわけではないが、弾力はない。強いて言うなら劣化したゴムに近かったが、これと同じ感触の物など今まで触れたことは無かった。

「透明になったからと言って命が奪われるわけではないんです。でも透けていく内に段々と口数が減り食欲も無くなり、そしてある朝突然消えてしまうんです。いえ、消えるのではなく透明になっただけなんでしょうけど。息絶えて初めて、体が浮かび上がってくるんです。父は…」

そう言って女は玄関の辺りを指差した。

「あの辺りに倒れていました。痩せこけていましたが、死因は老衰だったそうです。それは父が完全に透明になってから十二年目の朝でした」

私は鞄を引っ掴み、急いで出口へと向かった。彼女の父が死んでいたという玄関に向かって。

「そんな訳の分からない病気を私が診れるわけないでしょう、私の専門は外科なんだ」

しかし私は、どの専門だろうがこの病気を治せる者はいないだろう、本当はそう考えていた。

「どのお医者様もそう言ってお断りになるんです。残念です」

女はそう言って私を玄関まで送った。

私は急いで軋む階段を下り、車へと向かう。ばらばらと大粒の雨が降り出してきた。私は、まだそこに女が立っているだろうかと思って振り返ってみた。

女はそこにいた。張り出した屋根の下、ポーチにひっそりと佇んで、こちらをまだ見つめている。しかし私が見ていたのは彼女ではない。玄関先の軋む階段を下り切った辺り、次第に本降りになっていく雨に打たれて、三つの物体がそこに並んで立っている。それは人型のガラス細工のような物で、激しい雨の水滴が、つるつるとしたその表面を滑り落ちていく。それらの向こうに見える女や一家の住む家が、僅かに歪んで透けている。

それらは、いや、彼らは、確実に生きていた。はっきりとした意思を持ってこちらを見つめている。形の無い二つの眼で、私を凝視している。何を語るわけでもなく、何をするでもなく、ただ立ち尽くしている。

その内、彼女は家の中に戻って行った。そしてその後に続くように、ガラス病患者たちも、彼らの家に帰って行ったのである。

~おわり~

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