どうも、須貝です。
お芝居のお知らせをする時に、不意に連絡が取れなくなっていることに気付く人がいます。
何かの会で少しだけ会ったことのある人がアドレスを変更していて、僕の方にその連絡をしていなかった、なんてパターンが一番多いんですが、仲が良かった人が急に連絡が取れなくなったりすると流石にヘコみます。
お芝居をやっているとよくあることなんですが、お芝居をやめると共にお芝居での人間関係を全て断ち切ってしまう人もいて、「あの人はやめたらしい」という話を聞いて程無くメールも電話も届かなくなり、最早何をやっているのか分からなくなってしまう人も多い。それは凄く寂しいです。
今は携帯電話があるからあまり人と疎遠になる、という意識が強くはありませんが、そうやって繋がりが保ちやすい分、携帯電話を使っても連絡が取れない、となった時に為す術が無くなってしまうということに気付きます。家を知っているわけでもないし、共通の友人に聞いてみても、その人も連絡が取れなかったり。
音信不通って、怖いです。
自分は仲が良いと思っていても、そうやって切られてしまうのか、と思うと、人の思いなんて必ずしも通じ合うわけではないな、という気もします。自分が思っているからって相手が思ってくれているとは限らないわけで、そこの齟齬に、人間関係の哀しさがあるんじゃないかな、と思います。なんて。
つい最近ある人の誕生日を祝おうと思ってメールをしたら通じなくなっていて、暫く前からメールも電話も通じなくなっていたのでもしやと思っていたのですが、前にもあったことだしと思って気にしていなかったんですけど、流石にこれは切られたなと。
一つの人間関係を失うと、体の一部を失ったような気持ちがします。
自分も面倒だなと思う人間関係をないがしろにすることはもちろんあるんですけど(これ、ちょっと嫌な話ですね)、人にそういう思いはさせたくない。社会人なんだから、人付き合いをないがしろにしてはいけないとももちろん思う。ただ、相手にないがしろにしていると思わせていない自信はありません。
人が自分を切る時は覚悟とはっきりとした意思をもってそうしていると思っているので、もう諦めるしかない、という気がします。メールも電話もダメなら元より連絡する手段はないし…。
携帯電話って便利だけど、その便利さに油断して、それが通用しないと知った時に、もっとちゃんと話しておけば良かったとか、もっとあの人のことを知っておくべきだったとか気付かされる。
そう感じた時に、人間の関係って今、昔に比べてもしかして濃度が薄くなってきているんじゃないかって怖くなります。
濃度の話になるとまたそうとは言い切れない気もするんですけど、当然昔とは違ってきているはずで、一体何が違ってきているんだろうと考えるんですが、何が違うんでしょうか。
僕はやっぱり危機感だと思うんですが、皆さんはどう思いますか?
もし電話も郵便もない時代だったら、「ここで別れたらもう二度と会えないかもしれない」って危機感があったと思うんですけど、今ってそれあります?
昔、『三匹が斬る!』を観てて、あれ好きだったんですけど、バラバラに行動していた三人が一つの事件に巻き込まれて再会するってパターン、結構あるんですよね。でもあれって凄い確率というか、「お前らどんだけ縁があるんだ」って子供心に思っていたんですが、今の感覚からしたら普通ですもんね。
現代だって、夜逃げがあったり突然の事故があったりで、昨日まで普通に会っていた人と突然会えなくなることが有り得るわけで、以前よりいくらでも会いやすくなっている現代において、そのショックが倍増しているというか。
あの人ともっと話したかった。一緒に時間を過ごしたかった。それももう出来ないと思ったら、心から悲しい。自分だって誰かにそういう思いはさせてしまっている。確実に。一つ一つ取り上げていったら、後悔の数はキリがない。
自分は演劇や書くことで結局何がしたいのかと考えたら、人間関係のすれ違いとか隙間とか、そういうどうしようもない部分をどうにかしたくて、どうにかする努力を皆でどうにかしていきたくて、それを訴えたり自分で気づいたりしたくて、それでやっているんじゃないかという気がします。
親子には愛し合っていて欲しい。
兄弟や姉妹には仲良くあって欲しい。
友人や隣人同士には喧嘩して欲しくない。
恋人同士には恋をしていて欲しい(そりゃそうだ)。
全くの他人にだって、手を差し伸べる勇気が持ちたい。
これは綺麗ごとですが、綺麗ごとも並べられなくなったら世の中おしまいじゃないかと思います。
会えなくなった人たちへ。もしどこかで会ったら、笑って話しかけて下さいね。