極めて短編集(6)


○満足

 うちは雪国だったから、冬になると腰くらいまで雪が積もってさ。昔兄貴と喧嘩した時に、親父に『外に出て頭冷やして来い』って言われたんだけど、俺も兄貴もまだガキだったもんでその言葉の意味自体がよく分からなかった。それで仕方なく二人して雪に頭を突っ込んでたら、親父が様子見に来てさ、何やってるんだって大声出して笑ってた。大口開けて笑ってる親父なんて見たのは、多分あれが最初で結局最後になったな。

 女は男の瞳を見つめた。

 いい話。

 これ以外は大した思い出もないから。親父との思い出を人に話す時は大体この話だ。もう話し慣れたよ。

 お兄さんは?

 弁護士をやってるよ。なかなかうまくいってるらしいけど、忙しいらしくて、もう二年近く会ってない。親父の七回忌だったかな、最後に会ったのは。

 陽光が眩しい。強烈な太陽のエネルギー。誰彼構わず生きろと言っているみたいだ。迷惑な話だ、と男は思った。カフェには男と女の他に、贔屓のクラブチーム談義で盛り上がっている三人組の老人たちがいるだけだった。

 どうしてそんな話を急に?

 どうしてだったかな。男は笑った。

 いや、ごめん、本当に。なんでこんな話になったんだっけ?

 なんでだっけ?私も忘れたわ。女も少し笑った。

 ただ何となく、誰かと一緒に生きていくためには、その人に対して自分の何かをちゃんと分け与えなきゃいけない気がしてさ。昔話くらいしておかなきゃいけない気になったんだ。

 なるほど、と女は言った。

 いいのに、そんなこと。今でも充分なのにこれ以上もらえないわ。

 そうか?と男が呟く。

 そうよ。充分よ。私思うんだけど、知り合ったばかりの人に過去のことを聞くのは、その人との足りない今を過去で埋めたいから。今でいっぱいなら過去はいらないわ。

 どうかな。俺は親しい人の過去は知りたいと思う方だけど。

 私の過去を知ったらあなた、私に対しての今が何か変わる?

 さあ。分からない。多分変わらないんじゃないかな。不思議と君の昔話を聞きたくもならないし。

 ならそれでいいじゃない。

 明るい朝がそろそろ終わり、慌ただしい一日が立ち上がり始める。

 女は男の手を握った。男と女は、満ち足りていた。

~おわり~

Previously