継ぐものと、継がぬもの。


どうも、須貝です。

今日、ずっと観たかった『グラン・トリノ』を観てきました。まだ自分の中でうまく言葉に出来ないまま、感動が腹の底にうずくまっています。重かった。凄かった。

とにかくクリント・イーストウッドという人の、直球の強さ、人生全てぶつけてくる飾りのなさ、感動、人間に訴えかける、言葉。それら全てが強くて、この人はこういう映画を作れるような生き方をしてきたのだと思いました。尊敬。

考えることは色々あるんですけど、一つ強く思ったことがあって、それについて少し話します。

『ノー・カントリー』を観た時にも思ったことですが、今の世の中って、「継ぐものと継がぬものの闘い」だと思うんです。

『ノー・カントリー』でベル保安官が言っていますが、世の中はどんどん理解を超えた犯罪が増えていき、昔であれば考えられなかったことが平気で起こるようになってきていると、確かに若造の自分も思います。

人間的に美しいものって、受け継がれていくもんだと思うんです。

人間的に醜いものも、続いてしまってはいるけど、それを駆逐しようとする努力も続いていると思うんです。

継ぐ人には美徳だとかタブーとしてこれはやってはいけないとか、そういった意識が働くんだと思うんですけど、継がぬ人間にはそれがないというか。平気でそれを乗り越えるというか。

『ノー・カントリー』ではアントン・シュガーが継がぬ人間の象徴みたいに僕には思えたんですけど、現代ではそれが一般的にあって、単にレベルの違いでしかないと思うんです。

『グラン・トリノ』では、イーストウッドさん演ずるウォルトは遺す者であり、彼が出会ったタオ少年は受け継ぐ者。その彼らの脅威となるチンピラたちは、継がぬ者だと思うんです。

この映画には色んな要素があるけど、継ぐもののために継がぬものと闘うという要素が、後半大きな要素を占めていると思います。

現代は継ぐものと継がぬものの闘いで、継ぐものが脅かされているんだと、僕は思います。

ここで大事なのは、継ぐものが必ず勝つわけではないし、必ず正義だというわけでもないんですね。継がぬものが勝ち、市民権を得る場合だってあると思うんです。

でも、例えそうだったとしても、継ぐものの中には、希望があると思うんですよ。だって継ぐものはそれをまた後世に遺そうとするわけだし、それを継ぐものがいれば、そこに未来があるというか、凄くクサい話ですが、だから希望があると思うんです。

『ノー・カントリー』の原作と同作家の作品、『ザ・ロード』の少年にも父から受け継がれたものがあり、そしてそこには希望があると思うんです。

タオ少年のその後にも、やっぱり希望を感じるわけです。

そんなことを考えました。クサいですね。

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