才能。


どうも、須貝です。

最近、僕はどうやら「才能」という言葉が嫌いなんじゃないかと思い始めています。

才能なんて言葉は、ある人には重荷だし、ない人には屈辱でしかない。

才能という言葉で、その人の努力を無視してしまうのも嫌いです。皆頑張っているに決まっているんだ。もらったものだけで勝負しているわけがないんだ。

まぁしかし、絶対的な才能の差というものは、結局あってしまうんだと思います。

どんなことにしろ、才能のある奴の方が覚えも早いし仕事の出来もいいと思います。

僕がどんなに頑張っても、僕より才能のある奴には、勝てない。才能ある奴はやっぱすごいです。見りゃ分かります。一目瞭然です。

しかしこの勝てないというのは、同じこと同じだけやっていたらということで、そいつよりもいい経験を積み、いい人に出会えれば、全然そいつより輝けると思うのです。

つまり、そいつより輝くためにはそいつの倍の努力せにゃならんということです。当然のことですけど。

誰だって普段、才能という問題に直面してると思うんです。分野が違うだけで。

二十四年も生きていると、自分のことがおぼろげながらも大体分かってきます。自分に何があって何がないか、何となく分かってきます。

僕は、文章を作る才能が欲しかった。物語を作る才能が欲しかった。なぜならそれに一番憧れたからです。

でも、それを自分が全然持っていないということに、どうしても気付かされる瞬間があるんです。

それは人からの評価だったり、いいものをたくさん読んだり観たり、そういった時にどうしても突き付けられるもので、「俺が今やっているこれは何だ。落書きじゃないか」と思うんです。

でも、元々ゼロってのはいいことだらけで、僕がもし面白いものを書くことが出来たら、面白いと評価されるものを作ることが出来たら、それは全て僕の努力の結果によるものだということになると思うんです。

そっちの方が自信が湧く気がするんです。

だから、勝てないかもしれない、もう一生立ち直れないほどの深手を心に負うかもしれないと分かっていながら、挑戦せずにはいられないんです。性質の悪い希望であると分かっていながら、縋らずにはいられないんです。

僕は来年二月に自分で書いた脚本を演出して上演するんですけど、そんな風なことを思っています。

天才じゃなくて良かったと思ったことは一度もありません。多分産まれてから一度も、そんな風に思ったことはありません。

天才が死ぬほど羨ましい。だからこそ、天才には絶対に負けたくありません。

僕は来年二月、ボロボロに失敗して酷評され、もう二度とものを書こうなんて思わないほどに打ちのめされるかもしれません。心が壊れ、死ぬかもしれません。

それでも、やらなければならないような気がします。

なんか長くてよく分からない話になりましたが、つまり僕は、才能という言葉が嫌いです。その存在は固く信じていますけど、それで全てを片付けるのは逃げのような気がするから、あまり口にしないようにしようと思っています。

変な言葉です。

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