やめ時。


どうも、須貝です。

柿喰う客、連日満員で立ち見まで出ています。嬉しい限り。初日から考えると明らかに劇場の空気が薄くなっています。凄いですね。

箱庭円舞曲第十三楽章も初日を迎えました。箱庭の本公演にここまで関わらないことも初めてなので、どうしているんだろうとあわあわしています。が、多分大丈夫だろうと安心して、観に行くのを楽しみにしている今日この頃です。

今日、ふと思ったんですが、前から思っていたことなんだけど、芸術的なものって、やめ時を探すのが難しいなぁと思いました。やめ時というか、完成させにくいというか。

人に認められたり娯楽として成立させたりするためには、作り手がどこかで「完成しましたよ」という一線を引かなきゃいけませんよね。

まだ未完成なんですよという絵を展覧会には普通出さないし、撮ったままにだらだらと映像を流すだけでは映画とは呼べません。例えば二時間の枠に収めなければならなかったり、三分の曲として終わらせなければならなかったり、人とそれを共有するためには、どこかで結着させなきゃなりません。

時間が許せばいつまでも推敲出来るけど、推敲してばかりでは、いつまでも作品として世に出せません。

いい作り手は、どこが到達点か、何をすればより完成に近付くのか、どの辺でやめるのが丁度いいのか、などを、バランスよくやれるもんなのだと、今日ふと思いました。

お芝居はその辺が、難しい気がします。まだまだ先があると思うこともやはり多いですし、振り返って完成させられなかったなと思う時もあります。

ライブでやることの難しさなんでしょうか。毎日悩む余地が残されているので、毎日悩みます。変えた所で良くなる保証もないんですけどね。

今、この作品に何が必要なのか、見誤ると、作品があらぬ方向に進むこともあります。でも、こうすればもっと良くなるのでは、ということには、挑戦したくなります。

同じクオリティを提示し続けるのがプロとしては普通だと思うんですが、良くなる余地があるのであれば、追求し続けるのもプロだと思います。

どちらにしろ、それらの努力を自分のためではなく作品のためにしていきたい。自分を良く見せたいという欲がまだまだ頭をもたげます。未熟。腹立たしいです。

作品が自分に、自分がよく見えることを要求するのであればそうし、悪く見えることを要求するのであれば躊躇なくそれを出来る。

それくらい、どこか徹底した思いを抱いていたいとよく思います。

まだまだ、作品をより鋭くするために、自分も鋭くならなければならない。考えることをやめるとつまらないので、考えます。

Previously