だれかのいとしいひと。

どうも、須貝です。

だれかのいとしいひと、とは言い得て妙、良く言ったもので、とてもいい言葉だと思います。

確か箱庭の古川さんと小野さんに薦められた、角田光代さんの短編集のタイトルです。同名の短編が収録されています。どの短編も素晴らしい作品で、しかも表紙カバーは僕が好きな画家(主に絵本を描いていらっしゃいます)、酒井駒子さんの手によるもの。いい本です。

日常、ふと、この言葉が頭を過ぎることがあります。

急ぎ足で歩いて行くあの人も、とろとろと辛そうに歩を進めるあの老人も、悪態を吐いたあの人も、吐かれたあの人も、路上に寝転がるあの人も、肩をいからせて歩くあの人も、偽物の笑顔を振り撒くあの店員も、疲れの色濃いあのサラリーマンも、みな、恐らく、僕が知らないだけの、だれかのいとしいひとなのだろう、と。いや、だれかのいとしいひとであって欲しいな、と。

フランシス・フォード・コッポラ監督の『カンバセーション~盗聴~』という映画があります。確か観たのは小学生の頃だったと思うんですが、各シーンを今でも強烈に覚えています(まだ無名の頃のハリソン・フォードも出演しています)。この映画の中で特に印象的だったのが、ラストシーンと冒頭の男女二人の会話です。

ジーン・ハックマン演ずる主人公が盗聴する対象である二人が、公園に寝転がる浮浪者を前に、「この人もかつては愛された子供だったのよ」と話し合う冒頭のシーン。幼心になんだか寂しく、怖く、悲しくなったのを覚えています。それは浮浪者の変わりっぷりを見て、ということもあるんだろうと思うんですけど、人と人の距離のことを考えてしまったんですね、多分。もちろんはっきりと自覚はなかったけど。小学生だからね。

ある個人の判断基準に寄れば、人間の命は平等ではないのでしょう。

やはりどうしても僕には、例えば僕が今まで一緒にお芝居を作ってきた仲間達の命と、スクランブル交差点で擦れ違う人たちの命とを、同等に考えることが出来ません。だって親しさが違いますから。例えどんなに好きなアイドルやタレントの命と比べられても、友達の命を取るでしょう。

しかしだからといって、彼らの命をないがしろにしていいなどとはさっぱり思わないわけで。それはなぜか。彼らの命は大事じゃないが、彼らの生活を想像することは出来るからです。彼らのそれぞれが、だれかのいとしいひとだからです。

想像力とは、間と間を繋げる力だと思います。隙間を埋める力だと思います。
この、想像力のない世界のことを、とても恐ろしく思います。自分以外の誰かにも誰かの生活があるということや、自分がこうすると一体どうなるかという結果など、想像が働かないと、途端に社会生活なんてものは営めなくなる。

今、目の前の人が何を考えているか、どう感じているか、もしそれが自分だったら、などといったことを想像する力が欠けてしまうのが恐ろしい。本当に恐ろしいのです。

東京に来て8年経ちましたが、最近の街が以前にも増して殺伐と感じるのは、この街の隙間を埋めるものがなくなってきているからかもしれない、などと、時々思います。思う度に思い出される言葉。だれかのいとしいひと。

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