日本の夜が明けてる。

どうも、須貝です。

自分を幸福だと思う理由の内に、絶望しないで済む場所があるということが挙げられると、よく考えます。

どんな世界にもどんな分野にも、必ず権力というものがはびこっていて、それは人が人を統べる上では、その分野がある程度の確かさを持つ上では、仕方のない構造的な問題です。どんな分野も、この権力への反抗や従順から発展していくものと思います。

例えば印象派がその産声を上げた頃、主流はアカデミックな絵画で、印象派の人々なんて少数も少数、巨大な権力に抗い、サロンで見向きもされなかったので自分たちで印象派展を開き、それが徐々に支持されるようになって形勢を逆転したという流れがあります。しかし今度はその印象派の巨匠たちが権力となって、対する(というわけではないのかもしれないですけど)形でゴッホやゴーギャンのような画家が現れて…という流れを、どのような分野も必ず繰り返しているものと思います。

芸術分野における権力というものは、そこにクリエイティビティが絡んでくるだけに、複雑で残酷なもののように思われます。中身より外見、ネームバリューに流されることの多い日本では、特に抗い難く感じる。

自分の年齢的に、今ちょうど、メジャーには乗らないが自分の好きなことをしている、という点と、若干メジャーに寄っている、という点の狭間におり、この後者の方にいたく絶望したり潰されたりということが多くなってきているようです。自分と同年代の仲間たちも、皆一様に同じような苦しみを感じ始めている様子で。彼らの熱意や能力を知っているだけに、怒りや悲しみが込み上げてきます。彼らを雑に使い捨て、ないがしろにする権力に、負けてはならない、と、強く思います。

「売れる」ということを考えた時に、どうもこの権力に対して「従順」になる方法ばかりが正解のように囁かれているような気がしますが、「反抗」する形での正解が、必ずあるはずなのにと思います。有名な劇団に出演する、テレビに出る、アイドルと共演する、国の援助を受ける、という形ばかりが正解のように闊歩して、そうでなければいかんと言うのであれば、日本の演劇はもはや死んでいるということになるのではないでしょうか。

そう思って絶望した時、僕にはそこにいれば絶望しないで済む、必ず面白いことが出来るホームが、戻れる場所がいくつかある。それはこの上ない頼もしさです。

その場所がいつか大勢に一泡吹かせると、僕は信じている。

「諦めること」と「信じること」に使われるエネルギーがほぼ同等なら、僕は僕のエネルギーを「信じること」に使いたい。短い人生の内の長い期間を、誰かの言いなりになって費やすという生き方は多分僕には出来ない。

こんな偉そうなことを言っておきながら、結局今僕は売れていないし今後売れる保証もないけれど、失敗して諦めて地元に帰って別の仕事に就くかもしれないけれど、最初から犬になるよりは闘って負けた犬になりたい。

僕が今言う「反抗」は、ただ僕がやりたくないことをやらないというだけの幼稚なものですが、これがいずれもっとはっきりとした形を取った時、皆さんに何か面白いものをお観せ出来ることを、何の保証もありませんがここに約束だけしておきます。

いつ明けるか分からない夜明けを待っていると思うよりも、もう既に夜は明けていて、後は自分が目覚めるだけだと思った方が、はっきりしていて気持ちがいいと思いました。

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