麻痺。

どうも、須貝です。

引越しも終わり、片付けも徐々に終わりつつあります。もうちょっとで人が呼べるくらいに片付く予定。しかし狭いので盛大には人は呼べない感じで。

中野を離れてこちらに住み始めると、やはり自転車では通えない場所が出てきて、電車を使う機会が途端に増えています。苦手だったから使わなかった部分もあるんですが、やはりダメかもしれないと再認識しているところです。これだったら1時間掛かってもいいから自転車で行きたいな。

麻痺させる、という行動は、今を生きている人間にとって最も重要な生存機能なのではないかと思います。戦う、逃げる、よりも、麻痺させる。多くを感じ過ぎると肉体的にも精神的にも耐え難いストレスとなるため、麻痺させてしまう。心が感じる量を、少なくする。電車に乗っているとよく思います。皆が皆、閉じることで自分を生かしている。本当はもっと距離を取りたいけど、それが出来ないので感覚器官の方を遮断してしまう。

人付き合いにおいても、自分の持つ基準をある程度麻痺させないとやっていけないことも多々。好きな人とばかり付き合っていけるわけではありませんからね。

しかし役者、もとい芸術を生業にする人は、この感覚というものを、麻痺させてはいけない人々なわけで。それが生き難いと感じることもあります。出来れば感覚を研ぎ澄ましっ放しにしていた方がいいんですが、街や社会に出る時、それをある程度オフにする瞬間も必要になる。そしてそれをまた研ぎ澄まし直すというその作業が、本当は無駄なんだろうなと思います。

前から何度もここで言っていることですが、最近はとみに東京という街の限界を感じます。都心を離れた今の居所でさえ、人は多い。まぁそれは地方都市でもおんなじなんですけど。新宿などでは、触れ合う度に、人と人の心が擦れ違うざらついた音が聞こえるような、そんな気がする時もあったり。

もしかしたら僕は、自分の故郷やそれに準じた場所を理想的に見過ぎているのかもしれませんが、理想を追って何が悪い、今おかしいと思うことをおかしいと言って何が悪い。やはり異常なんだと思うんです、人間が生きる環境として。

僕は自分の持つ感覚を出来れば鈍らせたくないなーといつも思っています。アーティスティックなこともですけど、それ以外にも例えばお金の感覚とか。家賃とかご飯代とか。「そんくらい普通だよ」や「東京なら当然」という言葉にあまり耳を傾けたくないなーと思っています。じゃあ東京に住むなと言われそうですが。別にその妥協点を自分なりの感覚で探ることに関しては、皆さんも異存はないでしょう?

まぁ要は、何か意見を言う時は、ちゃんと自分の言葉でありたいよな、という、理想の再確認です。自分で決断する時は、ちゃんと自分で納得した理由によってでありたいなと。その決断を誰かのせいにしたくないなと。っていうか最終的に凄く当たり前のこと言ってますが。

僕は今、ちょっと面白いことを考えています。なかなか楽しくなりそうな予感。夏頃に形に出来るかも。何か決まり次第ここでも発表していきます。

Previously