徒然なるままに幸せを祈る。

どうも、須貝です。

今日は徒然なるままに書きます。脈絡がありません。まとめるつもりもありません。

子供の頃からの親友が結婚しました。正確には小学校からかな。中高になってから仲良くなった気がします。単に小学生の頃の記憶がないだけかも(あんまりいい思い出がありません)。今は地元に帰ると必ず会う友達です。

去年、れお君のために僕が書いた一人芝居、『僕の兄の幸福な結婚』という話は、僕の兄が結婚することをきっかけに生まれた話ですが、その六割ほどは誰か別の人の話を元に書いています。その内の一人がこの友達です。結婚するかもしれない人がいると聞いていました。

演ずることにしろ書くことにしろ、結局は自分から発信するものを紡ぐ作業だと僕は思っていました。今も思っていますが、人間というのはなかなかそう一元的に割り切れるものでもないようで、自分に対して様々な影響が及ぼされ、その度に自分が変わっていくのが分かります。そしてその自分への影響がもちろん、演ずることにも書くことにも反映されるので、結局「自分」が発信するものという根拠がひどく曖昧に思われてきます。

つまりは、単純に誰かが幸せなら僕も幸せ。「僕は独り身だから幸せなのは僕ではない」などと自分を限定してみようと努力した所で、結局幸せの影響力には抗えないし抗う必要もない。自分を冷静に分析するとか律するとかはそういう意味ではないのだろうと思います。

何の話だっけ。そうだ、今年に入って友達の結婚の報告を聞くのは二人目。僕は幸せです。大学の先輩も結婚するので、去年もそうだったけど今年も結婚ラッシュになりそうです。

今さっき息抜きに『イルマーレ』(キアヌとサンドラの方)を観て、いい映画だなぁと感動していた折に結婚の報告。なんかもう感情が一気に昂りました。この気持ちはなんなんでしょう。

誰かと誰かが結ばれるということを考えると、気が遠くなります。本人達は自覚していないかもしれませんが。巡り合わせってありますよね。タイミング。良いタイミングだったんだろうな。

美しい言葉や親しんだ人たちや幸せな情景ばかりに触れていられればいいのに。理想ですけど。追わないよりマシかな。

テレビを観なくなってもう1年ほどが経ちますが、「世の中に遅れないこと」と「自分が得たいものだけ得ること」を天秤に掛けた時、テレビが要らないと感じたんですね。本当は両立出来るんだろうけど、僕は自分に対して危機感があった。役者である以上一般的な感覚は絶対に必要ですが、必要以上に汚れる必要もない。今のニュースには辟易します。時々本気で山に篭りたいと思うことがある。

今ある情報やメディアって、実はそんなに必要じゃないんじゃないかなと時々思います。現に僕は1年以上、普通の人の半分以下の情報量で生きているわけだし。ちゃんと生きているかどうかは議論のしどころですが。

何の話だっけ。そうだ、結婚おめでとう。心からおめでとう。ここでは書き尽くせないから書かないけど、ここでは書き尽くせないほど幸せを祈っています。

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