美しさに向かう。

どうも、須貝です。

ブログ6周年に向けて頑張って更新していこうかと思っていましたが、今月はなんと3回しか更新できませんでした。これは怠けていたわけではなく、どうも時間がうまく作れなかったせいで、鎌倉に行ったり動物園に行ったり(一人で)する計画もあったのですが、全てなくなってしまいました。貧乏暇なしです。

来月は箱庭も始まるし、あがさとの二人芝居の稽古も始まるし、もう少し更新出来るんじゃないかなぁと高を括っていますが、どうでしょうね。末永くお見守り下さい。

さて、4月もあっという間に(本当にあっという間に。何してたんだろ)終わり、5月が始まります。箱庭円舞曲ももう少しで劇場入りです。本番まであと4日。稽古を着々と積み上げていますが、まだどんな作品に至るのか、どういう風に受け入れられるのか、未知数な部分が多い。まだまだ可能性がある段階といいますか、劇場に入ってセットが組み上がって、そこに立ってみたら途端に出来上がるのではないかという予感もあって、何はともあれ不安な部分も含めて楽しみです。よくよく考えれば僕は久しぶりの舞台なのでね。皆様に忘れられないようにベストを尽くしたいですね。

さて、突然ですが、美しさの感覚というものは持って生まれた要素、育ってきた環境によって培われるもので、なかなか大人になってから変えることの出来ないもの、変わることのないもののように思います。

美的感覚は鍛えられるものかもしれませんが、ぼんやりと漠然と「美しさへの感覚」ということを考えると、その部分がその人の個性と言いますか、人付き合いの仕方や善し悪しの判断ということを含め、なかなか確固としたものがあるのではないかと僕は思っています。

誰に対してどう接するのが自分にとって快いか、これは許せてあれは許せない、という判断の上で、「なにをもって美しいとするか」という基準が、無意識の内に働いているような気がします。その感覚に個性があると思う反面、人類皆が共通して美しいと感ずる感覚も存在するので、その辺がよく分からなくなりますけど。

宮本武蔵が強かったのは、彼の美しさの感覚が剣の道にまで及んでいたからだと思います。彼が書画においても才能を発揮したのも、彼が分野に隔てなく、美しさの感覚を及ばせられる人だったからだと思います。実際どんな人だったかは分かりませんが、戦っている姿は美しかったんじゃないだろうかと勝手に思っています(バガボンドにもそんなくだりがあったっけ)。

どんな分野の何にしろ、ある程度高水準のもの、純度の高いもの、技術の優れたものは、人にそれを美しいと思わせる何がしかを含むものなんじゃないでしょうか。職人さんがものを作っている姿が格好いいと思うのも、そういうことだと思います。

表現をする人は、やはり、美しさの発見者であり提示者であり提案者であるべきだと思います。例えば夕日が綺麗だとか人の泣いている姿は涙を誘うだとか、そういった当たり障りのない美しさを提示するのは簡単です。しかし、トラックの前に飛び出して「僕は死にません!!」と叫ぶ男の美しさや、指輪の代わりにナットを嵌める美しさなんていうものはなかなか一般の人には考え付かないというか、「あぁ、これも美しいのか」という気付きを与えるのが、美しさの裾野を広げるのが、目を向けさせるのが、表現をする人の仕事なのではないでしょうか。

演ずることにも幾種類かの美しさがあって、完璧に整っている美しさを目指すか、歪さの中に美しさを目指すか、大きく分けてもその二種類があると僕は思っていて、前者は所作に無駄がない、台詞に澱みがない、などで、ろくろで回した均衡の取れた茶碗と言いますか、そんなイメージ。後者は手びねりの味のある茶碗と言いますか、こんなん言いつつ僕、全然茶器の事は知りませんけど、そういうイメージを持つことがあります。

今回の箱庭は「誰か」や「皆」の感覚と、「自分」の感覚の闘いの話だと僕は個人的に思っていて、こういう不安定な世の中だと、多くが賛同する意見になびいて安心したくなるものだけど、本当にそれでいいのだろうか、という話だと感じて稽古しています。あくまで僕がそう思っているだけですが。だからこそ、この作品を観て、皆さんがどう思うのかなぁと反応が気になる作品ではあります。
「そんなん当たり前じゃないか」と思う人もいれば「へー、そんな人もいるんだー」で終わる人もいるだろうし、「果たして自分はどうだろう、笑えるのか?」と思う人もいるだろうなーとぼんやり考えています。

何にしろ、自分が何を美しいと思うか、心地良いと感じるかを知り、それを生き方にちゃんと反映させる努力をすることは、疎かにしがちだけど、大事なことだなと最近思っています。

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