皆の中の私の皆に対するあれこれ。

どうも、須貝です。

箱庭円舞曲第十六楽章『珍しい凡人』、絶賛公演中です。今週水曜まで。本日も夜公演があります。

まだ公演中なので、あまり振り返る、という感じでもないのですが、観に来て下さった方々と話したり自分でもこの作品を思い返したりしつつ、思うことをちょっと書こうかなと。

今回の作品はやはり、少なからず震災の影響を受けています。古川さんが執筆中に起こった出来事だったので、影響を受けないわけにはいかなかったと本人も言っておりました。それが普通だろうと思います。

お客様とお話する時もやはり必ずこの震災の話を含んで今回の作品のことを話すのですが、この作品の根っこにあるものは震災があろうがなかろうが関わらずにあり続ける普遍的なものだと思っていて、今の状況下でこの話をすることでより印象は強くなりはするけど、結局いつだってこの問題と僕らは向き合っているものだと、まぁ僕は思っています。

例えばそれは他者に対して自分をどう紹介していくか、他者の中でどう生きるか、迷った時一体誰を信じればいいのか、自分を信じていいものか、そんな時信ずるに足る自分なのか、他者は信ずるに足るのか、そういった他者と自分との関わり方であるとか他者も自分もひっくるめた社会のあり方だとか、普段からひっそりと蠢いている問題で、皆知らぬふりをしてやり過ごしていたけれど、大きな事件が起こったことでそれが一度に湧き上がり、結果見ぬふりをしていたり気付かずに漫然と生きていたりした人たちにとっては突然現れたもののように思われ、混乱を巻き起こしたもの、つまりそういうどこにでもある問題の話なんだと、僕は一人勝手に思っています。

この世界に存在する人間は一人ではないので、つまり誰もが他者と自分という問題を抱えています。

誰だってそうですが、表現を生業とする人たちは特に、自分と他者ということを常に考えている人たちだと僕は思うので、だから今回こういうことが起こった時に箱庭が、古川さんがこういう態度を取ったのは僕は至極真っ当で、もし観た人がそれによって何か新たなものを抱いたり、抱いていたけど正しいのかどうか不安だったものが確かなものになったり、例えば全くこの作品に共感できなくても、共感できない自分がいることに気付くことが出来たり、とにかく発信受信がある時点で何がしかの利益はあるものと、思っています。

ごちゃごちゃと色々言いましたが、他者の中の自分ということを考えた時に大事なのは、何に対しても公平であることだと思います。

ある一つの情報をどう感じるか、ということに対して自分なりの公平さを持つこと。
他人への評価に公平さを持つこと。その基準を自分に対しても公平に持つこと。

他の皆がそう言っているから、という理由でそれを正しいと思うことだって、僕はその判断に自分なりの公平さがあれば全然構わないと思っています。私は多数意見が正しいという判断は公平だと思う、という主張がはっきりあるのであれば別にいいんです。自分が正しいと思っていることが結果的に多数の意見だったってことだってもちろんありますからね。

自分なりに公平な基準を持つこと。自分が今言っていること、取っている行動を自分自身で理解していること。受け取るものに対し自分のフィルターを掛けているかどうか。一か月前はこう言っていたから、今は本当はこう思っているけど言えないなぁ、などと悩むのも阿呆らしいと思います。その時々で嘘を吐いていなければ、自分なんていくらでも変わっていって良いと思うんです。そうじゃないとつまらんですからね。

単純ですが、分からないことは言わない、知らないことは聞く、調べてみる、それでもどう捉えていいか分からなければしばらく放って置く。それで大抵のことは大丈夫なんじゃないかと、思います。

他人は実はそんなに僕に興味がないし、他人は実は意外と僕に興味を持っている、という状況が同時に成り立っていて、そのバランスを読み違えないようにするためには、たくさんの経験を積んだり努力をしたり失敗をしたりしなければならないようです。

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