どうも、須貝です。
monophonic orchestra 2ndも4日目を終えて、第1週はあと3回を残すとみとなりました。そんな夜に書いています。
今日新宿で高校の同級生達が飲んでいて、僕も合流したかったのですが、稽古で結局行けませんでした。電話で話だけしたんですけど、転職したり第二子がお腹にいたり、結婚して愛媛に行っていたり、同級生達の声は変わらぬのに当然のように変わっている生活のことを思って、自分が東京に来てからの8年間を思いました。
まず頭に浮かんだのは失ったもの。離れた人々との埋めることの出来ない時間、あるはずだった未来の姿、選ぶことの出来た前途の数々、そんなことを思って、その後、得たもののことを考えました。得た経験、得た技術、得た確信や得た自信。人間関係、そして今日電話で話した同級生達が、結構変わらず彼らのままで、彼らの中に僕の場所が残されていて、それの大きさは昔とは違うだろうけど、ただ僕は、そこに場所があるだけで、心に暖かなものが広がる、なんだか不意に泣きそうになったりして、もういい大人なんだからと思うけど、今上演中の『ファーファーファーファー,ファーラウェイ』とリンクするものが多過ぎて、やはりどうしても泣いてしまう。そういう感覚もまた、得たものと言えるだろうと思います。
いつだって正しい道を歩いて行きたいと思ってきたけど、何が正しいかは分からない。相対的な問題だったりするし歳を重ねるごとに自分の中の正しさがあやふやになったりもするし。それでももし一つ判断の基準を設けるならば、自分の周りに尊敬すべき人や愛すべき人がいるか、今自分は自分を誇れるのか、そういったことなのかもしれないと、何度目になるか分からない同じようなことを思います。
正しくなくとも良い、ただそれが人の道であれば、とも思います。
何かを書くということに留まらず、演ずることも表現することも生きることも全てのことが、失った時間や得た時間の恩恵を受けて影響を受け合って、離れ難い郷愁を伴ってそこにあり、そういった過ごした時間や可能性として存在した時間の全てはやはり、今、一つの自分という瞬間に向かって収束していっているようです。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という感覚はここで言うふるさとに限らずあるものと僕は思います。人の想像力の一部は常に遠くにある何がしかに思いを巡らすことに割かれているような気がします。そういった距離のことを思う時、それが自分の人間性の証明であるような気もするんです。
来年始には実家に帰れるだろうと思うので、今から皆に会うのが楽しみです。
9月7日に観ました。家族皆が待ちわびた妹の赤ちゃんが流産したばかりだったり。その他もろもろで、もう則天去私で生きていこう!なんて思っていたのが百想を出た時には色味と温か味にブワンと包まれるようでした。カタルシスでした。観れてよかったです。台本かえばよかったなぁ。
小麦さん
ご観劇ありがとうございました。
僕個人としては家族や知り合いにそういったことがあったことがあるわけではないのですが、うちが兄弟が5人もいて、かえって子供がいるということの意味を考えるようになったのかもしれません。
本当に、ありがとうございます。なんと言えばいいかよく分からないのですが、僕は僕が向かうべき場所へちゃんと向かえるように、頑張りたいと思います。僕の作品を何かの足しにしていただければ、幸いです。